悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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愛は金で買えるんじゃない?って事を本気で考えてみる。

子育て真っ最中の主婦のヒエヒエです。

わたくし、最近「愛」について語ることが多いのですが…
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うん、何愛について熱く語っちゃってんだよって感じですが。

はい。私は熱い主婦です。

熱くて何が悪い( ̄∀ ̄)

と言うわけで、そして今回も懲りずに「愛」について引き続き語る訳ですが、

はい。タイトルに書いてるように


「愛は金で買えるんじゃない?」

って話。


…何て不純な考え!


って、昔の純粋ちゃんな私はプンスカプリプリ怒っていたでしょうね。

ですが、最近本気で思う。

愛はお金で買えるって。

何故、「愛はお金で買える」という考えに肯定的になったか、説明していきます。

まず、私の中の「愛」の定義は「愛=肯定的な関心」とします。

例えば、近所のおばあちゃんがニコニコして挨拶してくれるのも「愛」だという考えです。

アナ雪のオラフが言うように「自分のことより相手を大切に思う事」みたいな限定的な愛の定義ではないので、ご了承下さいね(アナ雪知らない方はすみません)

で、その「愛」がお金で買える例として、「習い事」が分かりやすい例だと思います。

私ごとですが、最近娘にスイミングを始めました。

もちろん、お金を払いますね。

そして、その分しっかり子ども達を指導してくれます。

しっかり、名前とその子の能力の段階も把握してくれます。

そう、しっかり関心を寄せてくれるのです。

よくできたら、思いっきり褒めてくれたり、その子その子に合わせて指導方法を変えたり、とても、とても可愛がってくれます。

何故か?

お金をはらっているからです。

お金を払ってくれる親の子だから熱心に関心を寄せてくれているのです。

ある意味限定的です。

誰でもってわけじゃないのです。

お金を払ってくれる親の子どもだから、ここまでしっかり見てくれているのです(しつこくてすみません)

そう、スイミングの先生はお金を求めている(金の亡者って話では決してないですよ)

親は子どもに関心を持って能力を高めて欲しいと思っている。

「愛=肯定的な関心」をお金で買ってますね。

互いにメリットがあるから成り立つわけです。

そう…

愛はお金で買えるのです!!

え?下衆ですか?
不純ですか?

いやいや、愛をお金で買って何が悪い?って私は思うのです。

例えば、よく金持ちのおじいさんが若い綺麗な女性と結婚したら、周りから「金目的だろ!」って非難されますよね。

でも、私はそれを本気で怒る人はただの嫉妬だと思うのですよね。

きっと本気で怒る人はお金を持っていない、綺麗な女の人に好かれたい、おじさんでしょう。

だって、確かに女の人は金目的かもしれません。でも、それできちんと相手に愛を与えて、相手も満足だとしたら何が悪いというのでしょうか。

互いにWIN-WINじゃないですか。

お金も「愛」の獲得手段の一つです。

「愛」はエネルギーですから、どんな方法でも枯渇するよりましです。

ないと生きていけないのですもの。

「愛」を金で買って何が悪い(何回もいいます)

考えてみたら「サービス業」なんてほとんど「愛」の売買ではないでしょうか。

ディズニーランドのキャストさんが笑顔であそこまで歓迎してくれるのは何故か?

誕生日のシールを貼っていたら祝福してくれるのは何故か?

高いお金払っているからです!

その愛を必要とする人がいるから仕事が成り立つのです。

ただ、そのような金で買う愛は「金」が切れると終了です。

習い事と同じように、お金をかけなかったら今までのようには愛を与えられないのです。

「お金を払いませんが、今まで通りスイミング通わせて下さい!」「…は?」って話です。

確かにお金で愛は買えます。

だけど、その愛はお金が切れたら終わります。

そう考えると「金の切れ目は縁の切れ目」とは言い得て妙です。

でも、勘違いして欲しくないのは、金に関係ない「愛」ももちろんあって、そっちの「愛」の方が重要だってこと。

その類の愛は「共存」「依存」「協力」「理解」がキーワードな気がします。

互いが互いを「かけがえのない存在」だと思うこと。

この様な「愛」こそが、今の世の中の枯渇気味な「愛」というエネルギーを増幅させる唯一の手段な気がします。

金で買う「愛」は互いにそこまで増幅は出来ない気がします。

金がどんどん消費されていくので、金だけで「愛」を継続的に得るには相当な金持ちしか無理な気がします。

なので、庶民はこの方法はいずれ自分の首を絞める事になりそうです。

よくありますよね、愛人に貢ぎ続けるために会社のお金をつかっちゃったって話。

または、借金してでもホスト通いをやめれないって話。

愛に無知な悲しい人間の悲劇…。

でもね、ここまで極端じゃないにしても、最近の世の中、みんな愛に無知になりつつあると思う。

近所付き合いが希薄になったり、孤立する子育て主婦や老人。

サザエさんの様なご近所さんみんながファミリーみたいな愛に溢れる環境が夢物語になりつつある世の中。

核家族が増え、利己主義に拍車がかかっている今。

さらにスマホ一つでショッピングまで一人で完了できてしまう世の中。

もう一度「サザエさん」の様な世界に価値を見出してみるか?

それとも、金で愛を買うしか手段がない世界に向かうか。

子供たちが年齢関係なく外で集って遊ぶ光景がなくなり、みんなそれぞれ習い事か?それともゲームか?

親はそれぞれ仕事、子供はコンビニ弁当が普通か?

金による「愛」の争奪戦が繰り広げられる世の中になるのか。

所詮金持ちが得する世の中なのか?

それともインターネットで愛を求める世界?(今だいぶそうなっている気がしますが…)

なんだか色々と話がそれてしまいましたが、「愛は金でかえるんじゃない?」って事を深く考えたヒエヒエでした。

周りの目を気にしすぎるのはもうやめる。って話

人生楽しまなきゃ損だ。

年を重ねるにつれそう思う。

昔は時間なんか、いくらでもあって有り余っていらない!ってぐらいな気持ちだった。

でも、私ももう子供が3人もいるいい年こいた大人。

ここ数年で身近に「死」を感じる機会が多かった。

祖父の死。
友人の死。


祖父は老衰での死だった。

死の2日前ぐらいに病院にお見舞いに行った。

意識はあった。

だけど、目をパカーっと開いていて、口は時々動いて、何か言っているけれども、何を言おうとしているのかはわからなかった。

ずっと祖母のてをにぎっていた。

まるで必死に助けを求めてもがいているようだった。

殆ど動いていないけれども。

その様子をみて、なんだか、生きていて必死にどーでもいいことに悩んで気を揉んでいる自分が、すごく贅沢者のように思えた。

祖父にとっては、もう言いたいことを発することもままならない。

普通に話せて歩いて食べて、いこうと思えばアメリカにだって行ける自分がなんだか、すごい大富豪のような気持ちになった。

「金」を沢山持っているって話ではなく「可能性」を沢山もっているって意味で。

今の私はなんでも出来るじゃん。

その時はそう思った。

周りの目を気にしすぎて、したいことをしないのはアホみたいだ。

もう私はどうどうと生きたい。

我慢も必要だけど、我慢しすぎも馬鹿みたいだ。

今夢中になっていることは「今」夢中になっているのだ。

夢中になっているうちに色々すればいい。

もしかしたら、その「熱」はすぐに冷めてしまうものかもしれない。

鉄は熱いうちに打て

この言葉を体に刻みたい。

美味しいものを美味しいと感じるうちに食べる。

食べれる歯がある内に。
食べれる舌がある内に。
食べれる胃がある内に。


やりたい事をやりたい内にやる。

できる内に。

まぁ、後々身を滅ぼす内容は…

本人がそのリスクを負う覚悟があるのならば、私はしてもいいと思う(リスクを負う事を全く予測出来ずにするのは唯の愚か者)

とにかく、もう、うだうだ言い訳をしてしたいことをしないのは馬鹿みたいだ。

将来のため!将来のため!とやりたくない仕事をして金をコツコツ貯めて、全く使わず死んじゃう。

そんな人生に憧れる?

もちろん将来は大事だ。

でも今の方がもっと大事だ。

お婆さんが髪をピンクに染めたっていいじゃない。

妊婦がハイヒール履いたっていいじゃない。

韓流アイドルに夢中になってもいいじゃない。

タバコが好きだっていいじゃない。

自分で責任を取るんだから。
あなたじゃなく、私が取るんだから。

周りのうだうだ言う声なんてどうでもいいじゃない!

あなたはあなた。

私は私。

あなたが満足ならそれが正解。
私が満足ならそれが正解。

それだけ。

あなたはそう思うかもしれないけれど、私は違うんだ、って軽い感じでいいじゃない。

確かに真剣に受け止めないといけない声もある。

でも、自分の事を本当に考えてくれて、愛のある言葉を真剣にくれる人がどれだけいるというのだろう。

そんなの本当に稀な声で、大体が「やっかみ」からだ。



そんな声に惑わされるな!

どうどうと命を燃やしたい。

私の儚い友の死を少しでも無駄にしないためにも。


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生きてるだけで儲けもん。

私は精一杯生きてやる。

これからは後悔しないようにやりたいようにやっていく。



人生の節目の年にこんなことを考えたヒエヒエでした。

「100万回生きたねこ」は何で最後生き返らなかったのか。考察してみた。

子育て真っ最中のヒエヒエです。

「100万回生きたねこ」という絵本はご存知でしょうか?


こちらの絵本有名ですよね。

私は「良い絵本」とは「子供だけでなく、大人にとっても様々な考えを巡らすキッカケになる絵本」だと考えています。

だとすると、「100万回生きたねこ」は間違いなく「良い絵本」と言えるでしょう。


内容はwikipediaより

主人公の猫は、ある時は一国の王の猫となり、ある時は船乗りの猫となり、その他、サーカスの手品つかいの猫、どろぼうの猫、ひとりぼっちのお婆さんの猫、小さな女の子の猫…と100万回生まれかわっては、様々な飼い主のもとで死んでゆく。その時、100万人の飼い主は猫の死にひどく悲しんでいたが、当の猫はまったく悲しまなかった。主人公の猫は、飼い主のことが大嫌いだったのだ。

ある時、主人公の猫は誰の猫でもない野良猫となっていた。「自分だけの事が好き」な主人公の猫は、100万回生きたことを自慢し、周囲のメス猫たちも何とか友達や恋人になろうと、プレゼントを持ってきたりして周囲に寄ってくる。

しかし、唯一自分に関心を示さなかった一匹の白猫の興味をなんとか引こうとするうちに、いつのまにか主人公の猫は、白猫と一緒にいたいと思うようになる。そして、白猫にプロポーズをするのであった。白猫は主人公の猫の思いを受け入れた。

そして時がたつと、白猫はたくさん子供を産み、年老いてゆき、やがて猫の隣で静かに動かなくなっていた。そこで猫は初めて悲しんだ。朝になっても昼になっても夕方になっても夜になっても、猫は100万回も泣き続け、ある日のお昼に猫は泣き止んだ。

そして猫も、とうとう白猫の隣で静かに動かなくなり、決して生き返らなかった。

出典:100万回生きたねこ - Wikipedia

文字だけの説明だと、分かりにくいですね。

とりあえず、未読の方は是非一度絵本を読んでみてください。


何故猫は100万回も生き返ったのでしょう?

何故猫は最後に生き返らなかったのでしょう?

読み終わった後、さまざまな疑問やなんとも言えない余韻が残ります。

人それぞれで、様々な受け取り方、解釈があるでしょう。

それができる内容ほど、私は素晴らしいものだと考えています。

それを承知の上で、私の「100万回生きたねこ」の解釈を述べさせてもらうと、

この絵本は「愛」の性質を見事に表していると思います。

猫は愛されます。猫が死んでしまうとみんな泣くのです。

猫は沢山の愛を注がれるのです。

「愛」についてはこちらの記事で私の考えを書いています→

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こちらの記事で述べているように愛とはエネルギーで、猫には沢山の愛というエネルギーが注がれているのです。

ですが、猫はその愛をすべて受け流しています。

そう、猫は「愛」の扱いを知らないのです。

いくらコップに沢山の水を入れようとしても、蓋をしていれば、一滴もコップには水が注がれない。

いくら「愛」が注がれても、それに無関心だと、「愛」というエネルギーは悲しく流れ去っていくだけです。

「愛」は与える側と受け取る側が相互に正しく作用してこそ、増幅できるのです。

猫が大っ嫌いだった、猫を一方的に愛した人間達はきっと独りよがりの「愛」だったのでしょう。

自分の為に「愛」を与えている。

独りよがりで、悲しい存在として「人間」が描かれている気がします。

人間たちは自分の為だけにねこを愛していた。

自分の為に猫を利用していた。

きっとその一方的な愛は猫にとっては嫌なものだった。

だから、大っ嫌いだったのでしょう。

そう、人間達は自分の為に猫を利用していただけなのです。

人間の一方的過ぎる「愛」は猫を幸せにすることは出来なかった。

猫は何にも満たされなかった。

不満だった。

だから生まれ変わった。

何回も何回も。

結局、猫の心を満たしたのは、唯一猫の自慢話しに無関心だった「白猫」でした。

「白猫」がキッカケで、猫は初めて「愛」を与えることを知るのです。

ずーっと「愛」を受けるだけだった猫が初めて「愛」について学んだのです。

愛する事を知り、やっと正しく「愛」を相互で作用することができたのです。

愛し愛されることの素晴らしさを知る。

「愛」を増幅することができたのです。

「愛」を増幅することができて、初めてこころが満たされるのです。

ねこは満足した。自分の一生に。

満足したから、もう生き返らなかったのではないのでしょうか。

言い方を変えると「愛について無関心、無知だと、100万回生きても心が満たされることは決して無い」という厳しいメッセージにも受け取れる気がします。

正しく愛すること。

それは本当に相手の事を考えてのことか。

その「愛すること」が気づかないうちに「自分の為」だけになってはいないか。

独りよがりになってはいないか?

ペットや老人の延命治療は本当に彼らの為になっているか。

その子供への愛は子供を苦しめていないか。

自分本位になっていないか。


一方通行の愛は相手の心を満たす事はできない。

「愛する自分」に酔って、かえって相手を見失っていないか。

また、周りの「愛」に気づかずに過ごしていないか?

「愛」に無関心な限り、心は満たされることはない。

私たちがよりよく生きる為には、「愛」について学ばなければいけない。

「愛」について気づき、正しく扱ってこそ、心は満たされ続けるのだから。

「愛」は相互が努力を継続してこそ、輝きを放ち続ける事ができるのだから。

「100万回生きたねこ」の絵本の正しい解釈なんて存在しないのかもしれない。

けれど、私はこんな事を考えれずにはいられないのです。

こんな「愛」についての考察を生み出してくれた「100万回生きたねこ」は間違いなく「良い絵本」だと。

以上、絵本「100万回生きたねこ」についての考察でした。


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