悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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子育てって花の水やりに似てる

子育てって、花の水やりにてる気がする。
一日だけやる気で、ばーっと一気に水をやるんじゃダメ。

その花に適した量を、立派に成長することを目指して、

毎日毎日水やりを続けることが大事。

「続ける」ってことが重要なんだね。

水の量も

土の状態も、

その子の今にとって何が最適か

観察しながら、頭を使いながら、

行動を積み重ねていく

きっとそれが大切だし難しい。

一日の水やりは簡単かもしれない。

だけど、いつ花を咲かせるか分からない、その不確実な未来を信じて水をやり続ける、

それって1日の水やりとは比べものにならないくらい大変だと。

でも、

子育てに限らず、「続けること」って難しいし、大切なことなんだね。

信じることができなければ、続けられない。

「継続は力なり」

って言葉の意味を子育てで実感中。

だから自分を信じる心、自己肯定は大事なんだよね。

信じる事が出来なかったら続けることはできない。

その行動は間違っているか、正しいかどうかなんてわからないけど、その努力は子供達の成長に必ず反映している。

子供達にいいか悪いか別にして。

まだまだ、道半ばだけど。

しっかり頭と目をつかって、観察して、判断して、雲を掴むような事の積み重ねかもしれないけれど、

自分を信じて努力し続けたい。

そう静かに思っている、春休みの母なのでした。

自由な風船はうらやましい?

時々すごく自由になりたくなる時がある。

まるで、水の中にできた気泡みたいにふっと、そんな気持ちが生じては。

ふっと、消える。

現実的じゃないって知ってるからね。もう。

自由に誰もが憧れるけれど、やっぱり実際に自由にはなりたがらない。

それは自暴自棄に少なからず繋がるってみんな、なんとなく知っているからかな。

誰もが自由に漠然と憧れている。

誰かさんの結婚式で見た、青空に一斉に飛ばされていくあのカラフルな風船達みたいに。

でも、なんだか、解き放ったその瞬間は心が躍るけれど、

豆粒みたいに遠くに行ってしまった風船を見ていると、なんだか、さみしく、少し孤独な気持ちになる。

一気に

「輝く風船!」から

「哀愁漂う風船」になる。

ああ、あの風船達はこの後、たった一人で遠くまで彷徨って、いつか人知れず割れて、そして海の藻屑になるんだ…って。

ちょっと考えてから思考停止。

そして、一気に興味を失うんだ。

だからね、安全なところにみんな集まってつながれていた方がいいのかもしれない。

自由を夢みるのって、風船達が綺麗な青空にカラフルに解き放たれた一瞬を、

「美しい」って感じているのににてる。

写真だってその瞬間を好んで撮るでしょ?

解き放たれた風船のその後なんて、考えたくもない。

同じ現実なのに。

自由って恐いよ。

ある程度の枠がないと。

一番安全なのは繋がれていること。

でもそれじゃあ嫌だ?

じゃあ、範囲を決める?

犬だって、繋ぎっぱなしは安全だけど可愛そう。

じゃあ家では自由。

でも、不満?

じゃあ、庭を開放してあげよう。

え?それでも不満?

じゃあ、もうどこにでも行っていいよ。

バイバイ〜。

そして、その日からその犬は帰ってこなくなった。

うん、私っていいことしたな♪

…って違うでしょ?

強くないと自由にしたらダメだ。

自分が強くなってこそ、少し上の段階の自由を手に入れれるだけ。

強くないのに、自由になったら…

それは自暴自棄だ。

弱くて向上心がない人間が自由なんて求めちゃだめだ。

自由を求めるなら、

覚悟しないと。

そうしないと、海の藻屑になっちゃう。

弱い風船はあっという間に割れちゃう。

弱い私は、柵の中から遠くを見るしかない。
 
そして、それが安全だし、幸せなことでもある。

より、安全な、快適な、環境を柵の内側につくるんだ。

もう、自分に子供がいる今、自由を求める子犬みたいに、考えなしに家を飛び出るなんてことは、できるはずがないし、したいとも思わない。 

柵の外側のことじゃなく、内側に目を向けないと。

自分の自由ばかりに目を向けたら…
そんなことをしたら何も守れないんだよ。

自由を本当に求めるのは、無知な子供だけってことなんだよな。きっと。

でも、自分に見合った自由を少しずつ求めることは、

いつまでも諦めなくていいことだと思う。

柵をとっぱらうんじゃなくて、

努力して、

柵の範囲を広げていく。

「全くの自由!」

と、

「少しずつ自由を求めていく」

って全く違うことなんだね。

履き違えないようにしないと。

全くの自由がいい!って望むことは、

飼い犬が、家を脱走することを望むのと同じぐらい愚かなこと。

でも、いつまでも繋がれてることを嫌がって、家の中の自由を求めることは、

愚かなことじゃないんだよ。

きっと。

過去の自分を受け入れる。卑下する必要なんてないんだ。

過去の自分を今の自分に合わせる必要はない。

「あの時、あの状況、あの環境で、こういう事を考えていた」という事実が重要で、間違っているかいないかとか、今の考えと違うとか、整合性がどうとかは関係ないんだ。

過去の自分をむやみに卑下することは何にもならない。

認めてあげないと。

後悔は何の役にも立たない。

ゲーテの名言にこんなのがある。

焦ることは何の役にも立たない。

後悔はなおさら役に立たない。

焦りは過ちを増し、

後悔は新しい後悔をつくる。


出典:ゲーテの名言・格言集。支えとなる言葉 | 癒しツアー

後悔なんかしている暇があったら、前を向く。

目の前の現実に集中する。

私なんて、過去に情けなくて、かっこ悪いことを山ほどしてきた。

正直、思い出そうとするだけで、私の体が拒否反応を示すようなことだってある。

でも、過去は変えれないし、それが事実だ。

それが私で愚かで愛おしい自分なんだ。

大事な大事な自分の一部だ。

過去の自分を卑下することは今の自分を否定することに繋がる。そして他人に対しても。

だって、過去の積み重ねの結果が今の自分なのだから。

昔の私は勘違いしていた。

「一貫性がないといけない」

「全てに辻褄があっていないといけない」

「矛盾はダメだ」

って。

でも、それは間違いだったんだ。

全てを白黒はっきり分けれるわけじゃないって。

「嫌い」は嫌いでなければならない。

「好き」は好きでなければならない。

そんなのに縛られるのは自然じゃない。

全ては流動的で、移り変わっている。

無常なんだって。

自分の肉体も、精神も常に変化していってるんだ。

結婚式の時の誓いの言葉

「永遠の愛を…………」

っていうの。

でも、その後に儚く散りさった愛がなんと多いことか。

昔のガチガチの頭だった私だったら、

「永遠の愛を誓ったくせに、離婚するなんて、一貫性がない!言葉に責任がない!」

なんて、訳の分からない不毛な怒りを覚えていただろう。

でもさ、その誓いの言葉を口にした後がどうなろうがさ、

その瞬間は確かに真実の言葉だったんだよ。

その瞬間は心からそう思っていたんだよ。

その愛の瞬間は永遠だったんだ。二人にとっては。

その事実は、いくらその後、上手くいかなかったからって、変わらないんだよ。

「瞬間」「永遠」一見矛盾しているようなものも共存しうるんだ。

それを「今の自分の感情」に合わせて「あの時の私はおかしかった」だのと過去の事実を無理やり改ざんする必要なんてないんだ。

過去の自分を否定する必要はない。
否定ではなく受け入れて今の自分の糧にする。

一瞬一瞬を大事に一生懸命生きる。

それで十分。

嫌いな人を嫌いでい続ける義務もないし、

好きな人を好きでい続けないといけないこともない。

「考え方」も同じ。
「昔の考え方」に頑なに執着する必要はない。

…ていうか、したくても、出来なくなる事だってあるんだ。

全ては流動的で、変化しながら流れていくのだから。

全ては縁。

くっつこうが、はなれようが。

いくらもがこうが、人間は人間だし、鳥は鳥だし、魚は魚だ。

みんな運命の奴隷なんだよ。

地味にこの言葉気に入ってるジョ。

自然の流れに身をまかせて、一瞬一瞬を大事に大事に積み重ねていきたいな。


「夏草や兵どもが夢の跡」

by松尾芭蕉

いくら夢のようでも…

騒がしかった時も事実。

静かな今も事実。

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