悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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若いこともいい事だし、年をとることもいい事だ

なんでも、残りが少なくなってやっと有り難みがわかる。

人間っていう生き物は、自分が経験して当事者にならないと結局は本当の意味で理解できないんだ。

例えば、年をとってきて、胃が弱ってきた。

冷たい飲み物も、脂っこい食べ物も、ダメージを受けやすくなった。

昔はギンギンに冷えた炭酸とかグビグビ飲めた。朝からカツカレーとかも食べれた。

だけど、胃が弱くなってはじめて、その行為が胃に良くないことを知った。

もちろん、以前から「情報」としては知っていた。

だけど実感がなかった。

極端にいえば「都市伝説」みたいに、「それ本当に事実なの?」って感じだ。

半信半疑で、大人達のいうことを聞いていた。

右から左へ…。

そして、ある意味それは仕方がないことだとも思う。

だって、若い頃は溢れるほど沢山もっているのだから。

生命エネルギーを。

「若い」ってことは、新品でガソリンが満タンの自動車に初心者が乗っているようなものだ。

傷一つないピカピカの自動車に。

傷がないから、ちょっとの傷でも凄いダメージを受けた気がする。

心は繊細なんだ。新品のピカピカだからこそ、傷つくのがこわい。

だけど、ガソリンが沢山あるから、何処にでも行ける気がする。

そして、実際にどこにでもいける。

はるか遠くに行ける可能性を持っている。

寄り道だって沢山できる。

ちょっとあそこにも行ってみよう、ここにも行ってみよう。

ふらっと思い付きで寄り道できる。

だから、若いうちは傷つくのを恐れずにどんどん色んな場所へ行くといい。

デコボコ道だって、山道だって。

色んな場所へ行くことで、運転が上手くなる。そして、これから行ける場所の選択肢が広がるんだ。

だけど、歳をとると少し状況が違ってくる。

ガソリンの残りが気になってくる。

車体も傷だらけ。

色々と不具合が出始めてきた。

だから、そこまで無駄な寄り道はもうできない。

行きたい目的地があるのなら、そろそろ本気で行かなければ、辿り着くまでに車が故障してしまうかもしれない。

でもね、若い頃とは違うメリットもある。

もう傷は沢山ついているから、少々の傷は気にならない。

そして、今まで経験した分、運転には自信があって、要領よく運転することができる。

目的地に向かって効率よく進める。

ただ…ガソリンと、車体の状態が気になる。

若い頃はそんなこと気にも留めなかったのにさ。

でもね、メンテナンスをしっかりやって、しっかり目的地に向かえば、まだまだ遠くに行ける。

残り少なくなって、やっと繊細になれる。

そして、今までの経験や、運転技術、行くべき素敵な場所を若者に伝えることだってできるんだ。

バケツいっぱいの水の一口と、コップ一杯の水の一口は、コップ一杯の一口の方が水が貴重な気がする。

同じ一口でも、全然違う。

バケツくんにとっては「大丈夫!まだまだあるから!」って話。

有り余るほど持っていることは、きっと幸せなことだ。

だけど、残念なことに、その自分が有り余るほどもっているものの貴重さを本当の意味では理解できない。情報としては知っているかもしれないが、実感は湧かない。今の自分には関係ないことだから。

いくらバケツくんに「今の一口の水がどれほど貴重か」とコップ君が説いても、「はぁ…」って話だ。

いつかバケツくんの残りの水が僅かになった時に、やっとコップ君の言っていたことを理解できる。そんなもんだ。

だから、その貴重さを知っている人は相手が全く理解しなくても「伝える」こと自体に意味がある。その人の未来のいつかのために。

その貴重さを身をもって知る時の日の為に。

刹那的な「理解」を求めても意味がない。

時空を超えた「理解」のために、伝えないといけないんだ。

弱いこと、キャパが少ないことは悪いことじゃない。繊細な部分まで理解できる可能性がある。

心が弱いと、心の細部まで理解できる。人の気持ちを本当の意味で理解できる。

体が弱いと、体の細部にまで気を配れる。きっと体が弱っている人の力になれる。

強いもの、弱いものは、単独で存在しているんじゃない。

目には見えないけれど互いに支え合ってぐるぐると回っているんだ。

偉大な芸術家はなろうと思ってもなれない

きっと芸術を創る作業はきっととても孤独な作業だ。

自分の内側の世界で自分一人で作り続けないといけない。組み立て続けなければならない。

例えばこう想像してみる。

自分だけしか知らない内側の世界があるとする。

心の中の世界とでも言うのかしら。

きっとみんな持っている世界。自分だけの世界。

外の世界とは違うプライベートの世界だ。誰も入れない。

その世界で、それぞれが、自分の世界を構築する。

自分だけしかいないからその世界のことなんて誰も知らない。

そこには、生まれてきてから溜まり続けた「記憶」や「情報」が存在している。

それをどうするかは自分次第。

それはレゴのピースのようかも知れない。

いくらレゴのピースがあっても、何もしなければ何にもならない。

ばら撒かれたピースは、ぼんやり座り込んでいるだけではいつまでもただの「ばら撒かれたピース」だ。

いくらレゴのピースを集めるのが得意でも、自分の世界に溜め込んでも、何かを生み出すには時間と労力を費やさなくては何も作れない。

結局は「外の世界」と「心の世界」の「心の世界」の方に長い時間いれて、エネルギーを心の世界に割ける、恵まれた環境の人しか芸術は生み出せない。

昔の奴隷にはどう足掻いても芸術を生み出せなかったって話だ。

さらに心の世界に時間を費やして、レゴ(情報、記憶、経験、知識等)を組み立てて独自のものをつくらなくてはいけない。

ただ、最近はそのレゴで立派なものを作ったとしても、すでに存在していたりする。
例えば苦労して一からお城を作り上げても、すでにそこら辺に転がっていたりする。

むしろ、「外の世界」から立派に組み立てられた城をそのまま自分の「心の世界」に持ち込んで、その既成物で満足できるのだ。

漫画とか、小説とか、ゲームとか、立派な既製品が巷に溢れていて、それを利用して居心地のいい心の世界を構築してあぐらをかいているのだ。

きっと、殆どの人がそうだ。楽だから。
そして、そのまま既製品を「心の世界」に陳列して居心地のいい世界をつくるのだ。

だけど、一回それだけに依存してしまうと、自分で構築するのが面倒になる。何も自分で創らなくなる。そしてその時間があまりにも長いと、気づいた時には、何も構築できなくなってしまう。

つまり、他力本願、完全な受身になり、相手に依存してしまう。

依存するとは、支配されることに繋がりかねない。

だけど、芸術家は違う。

他人の既成物じゃあ満足しない。
自分で自分の世界をつくりたい。
他人に支配されたくない。
頑固で、自由を愛するのだ。

そして、心の世界にこもって、地道に自分の作品を作り続ける。

何日も何日もかかって。外の世界の活動をなおざりにしてでもつくり続ける。

そして、素晴らしい世界が出来上がったとする。

そしたら、その素晴らしい世界を「外の世界」に持ち出して、他の人と共有したくなる。

だけど、「その心の世界」を「外の世界」に持っていくには手段がいる。

きっとその手段が「文字」だったり「絵」だったり、「音楽」なのだろう。

いくら素敵な作品が「心の世界」に広がっていたとしても、手段がなければどうしようもない。

そして、孤独を味わう。

きっと偉大な芸術家は、その手段を獲得できていて、「心の世界」を「外の世界」に表すことが可能な、限られた恵まれた人なのだろう。

自分が「外の世界」に表現できなかった「心の世界」を表現してくれた…自分にはできなかったことを…自分は孤独じゃなかった。

芸術作品はそんな感動をうみだす。
孤独だった人の密かな心の友になれる。

共感こそが孤独な人を救う唯一の手段だ。

芸術はそれを時空を超えて可能にするんだ。

それが「芸術作品」だと。

芸術家は材料となるレゴのピースもたくさん持っていて、それを組み立てる時間も沢山あって、さらにそれを「外の世界」に表現できる方法を知っている。さらに、その方法を獲得するための時間、エネルギーも沢山ある人なのだろう。

とにかく、生活の為ではなく心の世界にひたすら時間を費やせることは、とてもとても恵まれた環境なのだ。

しかも多くのエネルギーが集中してその人に注がれなくてはならない。

色々な思いや、良かれ悪かれ人の関心やその人のおかれた環境によるエネルギーがその人になんらかの形で沢山注がれてエネルギーを帯なければならない。

偉大な芸術作品を生み出すには相当な材料とエネルギーを必要とするのだから。

だから芸術家は、なるんではなく、「そうなる類稀な環境にたまたまいれた人」なのだろう。

そして孤独に強くなければいけない。

「孤独に強い」ということは、心の支えがあることだ。自分の中に強靭な芯となる支えがなければ、孤独には耐えれない。

「揺るぎない自信があること」これが何よりも大切なのかもしれない。

立派なものを構築するには、揺るぎない強靭な「骨組み」「土台」が必要不可欠なのだから。


そういう数多くの条件が重なって、偉大な芸術家が偉大な芸術作品を生み出すのだろう。

生きるだけで必死な人間には、芸術家なんて、贅沢なぼっちゃんみたいに見えるのかもしれない。

可能性が広がると辛くなることも多いのかも

ぼんやり考える。

もし、私がピラミッドみたいな巨大なものを作るための奴隷の一人だったなら…

毎日毎日、大きな石を運ぶだけで1日が終わる。

毎日毎日、石を運ぶだけに生きる。

そして短い人生の殆どの時間を石運びに費やす。

だけど、その人生に不満や疑問を抱かずに終わる。

考える余裕も時間も意味もないから。

ただ、生きる=石を運ぶ

この方程式に疑問ももたない。

もしかしたら、自分が何を作っているのかも知らないのかもしれない。

唯の一人の人間である王の墓を何十年もかけて作って、そのことに生涯をかけた人間がどっさり死ぬ。

そんなことが当たり前だった時代が確かにあったのだろう。

大きなことのようなちっぽけなこと一つを成す為に、凄い数の人間の命を存分に使い捨てる。

そんな時代に比べると今は…

みんなが平等に人気者になれる可能性をもっている。

Twitterやブログ、YouTubeなど、人気者になれる道が平等に開かれている。

昔は奴隷が王様になれる可能性は0だった。だから、そこで思考は停止した。

だけど今は違う。

なりたいと思ったら誰でも行動できる。

だから、思考は暴走する。みんなどんどん夢がみれる。

そうすると、主役になりたくなる。

目立ちたくなる。

昔は遥か上にトップがいて、他は遥か下にいた。そこにたどり着く手段がなかった。諦めがついた。

だけど、今は上にいける道具をみんなが持てるようになった。

そうしたら、今まで下にいて不満に思っていなかった人たちはみんな、上を目指すようになった。

みんなが上を目指すようになったらそのまま下にいる人はなんだか、惨めな気分になった。

今までは、不満を感じていなかった同じ位置にいた人が、どんどん上を目指す。

惨めな土台になんかなるものか。

自分の人生を他人に捧げるなんて馬鹿馬鹿しい。

でもね…それは錯覚なんだよね。

何か大きなものの一部のために、人知れずエネルギーを注ぐことは、虚しいことじゃない。 

よくあることなんだ。

ちっとも珍しい事じゃない。

普通にそこら辺に転がっている事。

一瞬目立つのを目的にしてはいけない。

ピラミッドは奴隷がいなかったら存在しなかった。

王様じゃなく奴隷が人生をかけて作ったんだ。名前も残っていない奴隷が。

目立つことに囚われてはいけない。目立たない人知れない努力がないと大きいものは作れない。

「何を残したいか」が重要なんだ。

それはまだ終わりの見えない、巨大なパズルのピース一つでも構わないんだ。

今は他人に自分の努力をすぐに評価されないと気が済まなくなった。

自分の頑張りがすぐに注目されないと虚しくなる。

Twitterが虚しい。
ブログが虚しい。
Instagramが虚しい。

でも、人知れず亡くなったピラミッドのたった一部の石を運びつづけた奴隷の人生を考えたら…

今の時代はなんて自由なのだろう。

実はそんなこと、全く虚しくなんてないんだ。

今はみんながみんな、自分を過大評価しすぎるんだ。

そして、その分自分がちっぽけだと感じると惨めな気分も味わうようになった。

今の時代は皆んなが我儘になれる分、苦しみも大きいのかもしれない。

メニューが多すぎるレストランのようだ。

メニューが1つなら悩むことなんてなかった。

メニューが多すぎるから悩むし、悩んだ分、美味しいものを食べれないと許せなくなった。

そして、他人の料理が美味しそうに見えるんだ。

周りのみんなが美味しそうにオムライスを食べていると、自分もオムライスにしないといけない気になる。本当はカレーが食べたくても。

一瞬の目立つことに誘惑されては駄目だ。

目の前の慌ただしさに逐一惑わされてはいけない。

Twitterなんてこまめに血眼で追っては駄目だ。

「自分が何を残したいか」を俯瞰的に捉えることにエネルギーを注ぐことを忘れてはいけない。

何かピラミッドのような巨大なものを、王様でなくても作れる世の中だから。

自分を無駄に消費したくないのであれば、しっかりと目を逸らさずに見続けるしかない。大きな目標を。

そして、目立たないものにも価値がある事を忘れてはいけないんだ。

きっとその目立たないものの連なりが、大きな目標へ導くから。

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