悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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鬼滅の刃は「戦争を知らない世代」が生んだ傑作(注:多少ネタバレを含みます)

芸術は心を強く動かすエネルギーがないと素晴らし芸術はうまれない。

戦争漫画の名作だって(はだしのゲンとか)戦争を経験したからこそ生まれたものであって、戦争が起こらない限りそのような名作はうまれない。

みんな、実は心が燃えるような事を望んでいる。

命をかけれるぐらいの心の燃焼を。

だけど、今の時代は、命をかけて心を燃やすことはなかなかない。

「鬼滅の刃」はまさにそのような憧憬を反映した漫画だと思う。

「命をかけれるほど大切なものを求める事への憧れ」というエネルギーが生んだ今の時代ならではの傑作だと思う。

人間の心の奥に眠る闘志の美しさを追体験させてくれる。

人間にとって最高にドキドキすることエキサイティングなことは何か?

それは命をかけた戦い。

極論戦争かもしれない。

だけど、現実には戦争はもう何もうみ出さない。破滅、滅亡に向かうだけだ。

戦争を経験した人ならそのことを身をもって知っているし、決して望まない。

だけど、人間は経験した事しか真に分からない。

今の日本人のほとんどは戦争を知らない。

きっと、「鬼滅の刃」の作者も。

戦争を経験していない若者のどこかに、もしかしたら戦争のような命をかける戦いに憧れのようなものを抱いてしまっている部分があるのかもしれない。

もしかしたら、作者だって。

だから、「鬼滅の刃」は戦争を知らない世代に戦争のような「命をかけたドキドキハラハラ感」を追体験させ、さらにその上で、「今の幸せはそのような戦争での沢山の犠牲の上に成り立っている」ということを、平和ボケした世代に今の幸せを噛み締めてもらう…
そんな今の時代にピッタリな娯楽だからこそ、このような大ヒットに繋がったのではないだろうか。

正直、「鬼滅の刃」は残酷なシーンが多い。なぜ、こんな残酷なシーンがある漫画がこんなにも受け入れられているのか。

それは、今の時代「死」が身近でないからだと思う。いくら残酷な描写があっても現実味がない。お伽話の残酷な描写(例えばオオカミの腹を切って石を詰めるとか)を現実とは切り離して「お伽話」として読む感じなのだろう。

現実に見たことがなく実感が全くないのだから、感情移入することなくすんなりとお伽話感覚で読めるのだろう。

上辺だけサラッと読めるのだ。

ある意味「現代の怖い面」かもしれない。

もはや、命をかける戦い(戦争)は今の時代の日本ではお伽話のようなものなのだ。

そして、そんな命をかける戦いに、心が冷めきった現代人はどこかで密かに憧れながらも「戦争は絶対ダメだし自分は絶対関わりたくない」という絶対的な観念をもつという、どこか歪な状態なのかもしれない。

建前と本音は違うものだ。

本音、本能は「存在」するもので、理屈や理性で消すことはできない。見ないふりはできるかもしれないが…。

問題は、それを「悪い方向に作用させない」事だと思う。

だから、「命をかけた戦いを楽しいと思う」という本能を実際の「戦争」や「人を苦しめる事」に関与させないように発散できれば、それは即ち「平和」に繋がると思う。

その発散を幅広い世代にわかりやすい漫画という形で提供したのが「鬼滅の刃」だと思う。

漫画の力は偉大だ。絵と文を駆使した最高の表現手法だと思うし、素晴らしい芸術作品を生み出せる無限の可能性をもっている。そして「鬼滅の刃」はまさにタイムリーな芸術作品だと思う。

人間はみんな心を熱く燃やしたい。その最たるものが命をかけた戦い。その大きな熱量があるからこそ、色々な人間ドラマが生まれるし、色々な感情がジェットコースターのように生まれるのだ。

こんなことを書くのは気がひけるが、「鬼滅の刃」の最後の鬼がいなくなった平和な世界は、どこか虚しいような、物足りない伽藍とした世界に感じてしまったのは私だけだろうか?

鬼と鬼殺隊の死闘が懐かしく美しい思い出のようになってしまったのは私だけの夢幻か?

そして、また鬼との戦いで死闘を繰り広げる第二幕をどこか望んでしまっている自分がいる。

その願望は人間の本能を垣間見た気がしてゾッとした。

人間は少なからずそのような本能をきっともっているのだ。

だから、その本能を平和に満たすような娯楽が必要で、ある意味スポーツだってそのような役割がある。

そういう意味では、「鬼滅の刃」は人間のどうしようもない本能を満たしてくれる最高の娯楽だと思う。

おそらく、このような漫画はしばらく現れないだろう。

自由は1日にして成らず

幼い時から、自分自身の中で、何かをコツコツ積み上げる練習をしないといけない。

パズルのピースを集め続けて、そしてパズルを頑張ってはめ続けなくてはならない。

パズルのピースを集め続けるのをやめてはいけない。

そして、はめ続けるのも。

休むのはいい。

だけど、続けるのを放棄しては駄目だ。

気づいた時に、散乱したバラバラのパズルがどうしようもなくなって途方にくれることになる。

散らかった部屋はいつまで経っても行動しなければ散らかったままだ。

さらに、時間が残されていないと途方にくれる。

そして、見て見ぬふりしかできなくなる。

少しずつ地道にコツコツと続けることが大切なんだ。

コツコツとピースを集め、ピースを嵌め続けると、少しずつ世界が見えてくる。

世界を理解できる。

理解できるというのは「楽しみ」に繋がる。

トランプゲームと同じ。遊び方を沢山知っている方が楽しめる。更に、ルールを沢山理解し、沢山ルールを使いこなせる程もっと楽しみが広がる。世界が広がる。

そして、ものごとを理解できて初めて創造への道が開かれる。

創造ができるということは、自由になれる。

何故なら既存物に頼らなくていいから。

既存物に縛られなくていい。支配されなくていいから。

自由に生きたいのならば、創造的にならなければならない。

他人に左右されることなく、自分の意思で動ける。

自分の確固たる考えをもつ。

その「考え」は他でもない自分で構築するしかないのだから。

若いこともいい事だし、年をとることもいい事だ

なんでも、残りが少なくなってやっと有り難みがわかる。

人間っていう生き物は、自分が経験して当事者にならないと結局は本当の意味で理解できないんだ。

例えば、年をとってきて、胃が弱ってきた。

冷たい飲み物も、脂っこい食べ物も、ダメージを受けやすくなった。

昔はギンギンに冷えた炭酸とかグビグビ飲めた。朝からカツカレーとかも食べれた。

だけど、胃が弱くなってはじめて、その行為が胃に良くないことを知った。

もちろん、以前から「情報」としては知っていた。

だけど実感がなかった。

極端にいえば「都市伝説」みたいに、「それ本当に事実なの?」って感じだ。

半信半疑で、大人達のいうことを聞いていた。

右から左へ…。

そして、ある意味それは仕方がないことだとも思う。

だって、若い頃は溢れるほど沢山もっているのだから。

生命エネルギーを。

「若い」ってことは、新品でガソリンが満タンの自動車に初心者が乗っているようなものだ。

傷一つないピカピカの自動車に。

傷がないから、ちょっとの傷でも凄いダメージを受けた気がする。

心は繊細なんだ。新品のピカピカだからこそ、傷つくのがこわい。

だけど、ガソリンが沢山あるから、何処にでも行ける気がする。

そして、実際にどこにでもいける。

はるか遠くに行ける可能性を持っている。

寄り道だって沢山できる。

ちょっとあそこにも行ってみよう、ここにも行ってみよう。

ふらっと思い付きで寄り道できる。

だから、若いうちは傷つくのを恐れずにどんどん色んな場所へ行くといい。

デコボコ道だって、山道だって。

色んな場所へ行くことで、運転が上手くなる。そして、これから行ける場所の選択肢が広がるんだ。

だけど、歳をとると少し状況が違ってくる。

ガソリンの残りが気になってくる。

車体も傷だらけ。

色々と不具合が出始めてきた。

だから、そこまで無駄な寄り道はもうできない。

行きたい目的地があるのなら、そろそろ本気で行かなければ、辿り着くまでに車が故障してしまうかもしれない。

でもね、若い頃とは違うメリットもある。

もう傷は沢山ついているから、少々の傷は気にならない。

そして、今まで経験した分、運転には自信があって、要領よく運転することができる。

目的地に向かって効率よく進める。

ただ…ガソリンと、車体の状態が気になる。

若い頃はそんなこと気にも留めなかったのにさ。

でもね、メンテナンスをしっかりやって、しっかり目的地に向かえば、まだまだ遠くに行ける。

残り少なくなって、やっと繊細になれる。

そして、今までの経験や、運転技術、行くべき素敵な場所を若者に伝えることだってできるんだ。

バケツいっぱいの水の一口と、コップ一杯の水の一口は、コップ一杯の一口の方が水が貴重な気がする。

同じ一口でも、全然違う。

バケツくんにとっては「大丈夫!まだまだあるから!」って話。

有り余るほど持っていることは、きっと幸せなことだ。

だけど、残念なことに、その自分が有り余るほどもっているものの貴重さを本当の意味では理解できない。情報としては知っているかもしれないが、実感は湧かない。今の自分には関係ないことだから。

いくらバケツくんに「今の一口の水がどれほど貴重か」とコップ君が説いても、「はぁ…」って話だ。

いつかバケツくんの残りの水が僅かになった時に、やっとコップ君の言っていたことを理解できる。そんなもんだ。

だから、その貴重さを知っている人は相手が全く理解しなくても「伝える」こと自体に意味がある。その人の未来のいつかのために。

その貴重さを身をもって知る時の日の為に。

刹那的な「理解」を求めても意味がない。

時空を超えた「理解」のために、伝えないといけないんだ。

弱いこと、キャパが少ないことは悪いことじゃない。繊細な部分まで理解できる可能性がある。

心が弱いと、心の細部まで理解できる。人の気持ちを本当の意味で理解できる。

体が弱いと、体の細部にまで気を配れる。きっと体が弱っている人の力になれる。

強いもの、弱いものは、単独で存在しているんじゃない。

目には見えないけれど互いに支え合ってぐるぐると回っているんだ。

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