悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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特技のない主婦の私にとってブログは最後の砦だった

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

 

インターネット文学?

言葉の定義はよくわからないけれど、「私にとってのはてなブログ」について書いてみる。

実は私のはてなブログ歴は結構長い。

初めての投稿は2016年8月22日だった。2人の乳幼児の子育てで、孤独や不安と闘っている時期だった。因みに今3人子どもがいる。

 

www.hiekashi.com

 

この記事を書いた日のことはよく覚えている。私は子どもを寝かしつけたあと、ひっそりと暗闇の中スマホでこの文章を書いたのだ。

今では信じられないが、なんとこの短い記事を書くのに、3時間ぐらいかかったと思う。いや、もっとかかったかもしれない。記事を書き終わったのが深夜3時ぐらいで、投稿ボタンを押すのに、すごく緊張して指が震えたことを覚えている。

私は、生まれてからこの初めての投稿まで、他の人に対して自分の言葉で自分の文章を書くことがなかった。

 

本当に驚く程書いた事がなかった。

 

きっと、私は常に周りの人に合わせて生きていたから。自分の考えなんて、自分しか知らなかった。昔から、哲学的な事を考えるのは好きだった。だけど、それは私の中だけで人知れずグルグル回って終わった。

そう、完全な閉鎖系だった。私は脳内引きこもりだったのだ。
 
だけど、この初めての投稿で私の閉鎖系に小さな穴が開いた。

「千里の道も一歩から」のまさに一歩だった。

そして少しずつ脳内のものが流出し始めた。滞っていたものが、やっと行き場所を見つけた感じ。

今では結構大きな穴になった気がする。

 

私は当時、子育てが苦しかった。初めての子育てで必死だった。そして、「子育ての母親」でない「私」が消えていくような・・・そんな感覚に陥った。

それは、物凄く怖い感覚だった。

私は子育て以外に自分の為に何かをしたかった。

でも、何をしたらいいか、何が出来るか分からなかった。

私は子育ても一生懸命したかったから「子どもを預けて何かする!」みたいな考えはなかった。わがままだけど、子育てと両立したかった。

そこで、色々頭をこねくり回して辿り着いた打開策が「ブログを始める」だった。

子育て中に私自身の為に何かを積み上げておく場所を「ブログ」にした。

だから、このブログ名「悩みすぎな私の子育てライフ」は「私」という言葉を用いた。

「子育て主婦」や「ママ」という括り以外の「私」の自己実現の為の場所にしたかったから。

 

とにかく、こういう流れで私はブログを始めた。

 

そして、文章を書くことの楽しさをこの約五年間をかけてブログで知っていったのだ。

そして、今でも子どもが寝静まった後、テレビも観ずに静かに黙々とブログを深夜まで書いている私がここにいる。

 

私にとってブログは頭の中の荷物を置いておく頭以外の場所だ。

ブログは私の脳内倉庫以外の、整理整頓が快適にできる設備が整った倉庫だ。

その倉庫の役割はもしかしたら、はてなブログでなくてもいいのかもしれない。

だけど、もう私にとってこのブログ倉庫は快適だし、設備に慣れ過ぎたし、その中の荷物をまた違う場所に移動させる気力もない。

気づいたら、はてなブログは私にとってかけがえのない場所になっていた。

かつての私の家の中(脳内)は大量のレゴのようなものがばらばらに散らかっていて、どうしようもなくて、途方に暮れていた。
だけど、ブログを始めてからは、私はそれらを組み合わせて自称芸術作品(記事)を創って、せっせとはてなブログ倉庫に置きに行くようになった。

それで、家は片付いたし、何かを生み出すこともできた。

それは、私を一気に楽にした。

人に見られるという緊張感があったからこそ、これらの芸術作品を創れた。思いがけず、美しい形ができたり、新たな発見があったりもした。

そして、その作品を倉庫に置きに行く時、プチお披露目会ができて、時々誰かが見にきてくれる。

見てくれることは、創作活動の大きな原動力になる。

たった一人で家でピアノを弾くのと、人がいるコンサートホールで弾くのとでは全く違う。

いくら素晴らしいピアノ演奏ができても、一人ぼっちの家の中じゃ虚しく響くだけ。聴く人がいないと何にもならない。心を動かす事ができない。世界に何一つ変化を与えれないんだ。

ゼロでない事に意味がある。

ブログに会うことで、やっと私は家から出て人前で演奏できた。

そんなことはブログを始める迄の私の人生ではありえないことだった。

脳内引きこもりの外への第一歩だった。

今のところ、幸いなことにそのブログ倉庫は治安の悪い都会の真ん中にはない。ゴミを投げ入れられたり、落書きをされることはない。

人通りは少ないけれど、穏やかな田舎にある倉庫みたいだ。

そして、なんだか似たような信頼できる人が、ちょこちょこ私のブログ倉庫にふらっと芸術作品を見にきてくれる。その人が一言「いいね」なんて書いてアンケート用紙の箱に入れてくれた日には私はスキップでもしたくなる。

ブログは脳内引きこもりニートだった私を社会進出のために手をひっぱって外へ連れ出してくれた。

いつかは、その倉庫にある今までこつこつとためてきた沢山の作品をつかって、一つの大きな芸術作品を創りたい。

それは、私の人生の集大成のようなものを望んでいる。

それが有名になるかどうかなんて関係なしに、自分のエッセンス的な一つの作品を人生をかけて創ってみたい。 

 

そんな夢もできた。

 

子育て以外の「私」を今までブログで積み上げてきた。

だから、私にとってこのブログは私の一部のような存在になってしまったのかもしれない。いや、確実になっている。

実はもう少しで子どもと一日中べったりの7年以上続いてきた日々が終わる。一番下の子どもがやっと幼稚園に行くのだ。きっと今までないないと嘆いていた私だけの時間がやっとある程度できるだろう。

ブログを始める前の私だったら、おそらく子育てがないぽっかりとした時間は恐怖でしかなかった。子育て以外何もない自分に呆然として、悲嘆にくれて立ち尽くしていたかもしれない。

だけど、今の私には、345記事もの積み重ねがある。子育てがなくなっても、私はこれだけ子育て中、自分の為に積み上げてきたものがある。
それだけで、私は物凄く救われる気がする。理解されないかもしれないが、これがあるのとないのとでは全く違うのだ。

誰が何を言おうと、この積み重ねは大事な大事な私の一部だ。時間とエネルギーを注ぎ込んだ芸術作品なんだ。

そして、これからもこの積み重ねを使って積み上げていく事ができる。

何にも特技のない主婦に、こんな芸術家気分を味あわせてくれた。

ゼロだった道を1にしてくれた。

脳内を解放する道をくれた。

自分の文を書く、そして読んでもらえる創作の喜びを教えてくれた。

夢をくれた。

それが私にとっての「インターネット文学」つまり「ブログ」なのです。

 

 

p.s.

普段ブログ倉庫に入れっぱなしで過去の作品は見返さないが、なんとなく今回見返してみたら自分でも忘れていた気持ちが沢山あってびっくりした。せっかくなので日の目を見なくなった哀れな作品達の一部を、この機会に今の自分の一言を添えて紹介したいと思う。

 

【私のお気に入り芸術作品】

 

 

完全に忘れてた

 

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今でも同じようなことブログでいってる

 

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今の自分につきささる

 

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結構気に入っている記事

 

過去の自分いいこと言ってるな 

 

 

「救われた」というコメントをもらって私が救われた事を覚えてる

 

 

一生懸命書いた気がするけど長い。実はこんな記事結構ある

 

 

過去の自分いいこと言ってるな(2回目)

 

 

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書き終わった後、とても晴れやかな気分になった

 

 

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徹夜で脳内からはてなブログ倉庫にやっと出せれて、心からスッキリした記事

 

 

 

 

 

 

体と同じように精神も鍛え続けなければ、高い山には登れない

最近心と体はよく似ていることに気付いた。

体を鍛えないと、よりレベルが高い運動が行えないように、心も鍛えないと、より高い思考が行えない。
普段運動していない人間がいきなり42キロ走れ!って言われても走れない。日々体を鍛えているから、走れるんだ。

心?精神?も鍛えていないと急にレベルの高い思考なんてできない。
それをしようとすると、心がぶっ壊れる。

普段走る練習をしていないのに、42キロ走るのは不可能なように。
日々の積み重ねの鍛錬が大事なんだ。

そんなハードな内容でないにしても、体にとっては適度な運動は誰にとっても健康にいいのはもう周知の事実だ。
それは、体自身が常に運動しているからだ。
じっとしていても、体の中は常に動いている。胃や心臓や腸・・・とにかく動き続けている。

中は常に動いているのに、本体は静止したままでは、中の動きに負担がかかることは明白だ。
流れる川の中でじっとしているより、流れの方向に一緒に歩いた方が自然に決まっている。

だから、自分の体の状態にそった、運動を適度にするのがとてもいいのだろう。

精神も同じだ。

精神の状態にあった思考をするのが自然なんだ。

だけど、高みを目指すなら、少し話は変わってくる。

最初に述べたように、体が出来上がっていないのに、急にものすごい山なんて登れないように、心も急にものすごいことを考えれない。

ものすごい山を登るには、そのための日々の鍛錬が必要なんだ。体を山登りに耐えれるような状態に仕上げるのだ。

自転車で急な坂を登るには、そのために助走をつけなくてはならない。ゆっくり走っていたんでは、急な坂なんて登れるわけがない。
その坂のレベルを把握して、その坂を上り切るのに耐えうるスピードをもって坂にのぞまなければ。

別に、普段の生活を営むぐらいだったら、朝の散歩程度の運動で十分なんだ。
だけど、健康に過ごすのと、オリンピックにでようとするのとでは訳が違うんだ。
朝の散歩なんかで、オリンピックにはでられない。

普通の人とは違うレベルの思考をしたければ、それ相応の負荷を精神に強いなければならない。

じゃあ、体は運動すればいいが、心は?

心も運動すればいい。つまり、心が動かされることをすればいい。

体だって、強くなりたい競技によって鍛える箇所が異なるように、心も同じだ。

哲学、科学、芸術、etc.

自分のしたいこと、心が燃えるものをみつける。心が熱くなるかどうかで判断すればいい。

つまりわくわくドキドキすることをすればいい。

そしてわくわくドキドキし続けるために、色々な適した手段で心を鍛えればいいんだ。

スポーツだって、きっとオリンピックに出るような選手の原動力は「楽しい」だ。

それを楽しみ続けるために、色々と試行錯誤して日々自分に適した練習を模索しながら行っているのだ。

心だって、ドキドキワクワクし続けるためには、日々のそんな練習が必要なんだ。

それは常にドキドキワクワクする事じゃない。

とっておきのドキドキワクワクの山に登れるように日々準備しておくってこと。

でもさ、どんなスポーツでも最適な年齢ってあるじゃない。
同じように精神もあるのかなって。いや、きっとある。

どんな人間も肉体は衰える。
それは、自然な流れだ。

太陽だって、自分の持っているエネルギーを放出し続ければ、いつかはエネルギーが切れる。
質量が重い星ほど、星の寿命は短いって聞いた。

だから、本人がどんなに体を燃やそうとしたって、心を燃やそうとしたって、生命の老化への流れには逆らえないし、もって生まれた素質も変えれない。

60歳でオリンピックなんて不可能でしょ?まあ、競技の種類によっては違うかもしれないけれど。

だからね・・・精神世界もそこは同じでないと信じたいけれど、きっと若い時にしか到達できない類の高い山はあるとは思う。

60歳になって初恋なんてないでしょ?そんな感じ。

きっとさ、勝手な妄想だけれど、芥川龍之介は、「ぼんやりとした不安」が原因で自殺したらしいけれども、彼はエベレストのような危険な山を生涯登り続けることを自分の存在理由にしてしまったのではなかろうか。それが普通に生きていると不可能なことを直感で感じ取ってしまった。それか、まだまだエベレストなんかよりもっと高い山があることは確認できるけれども、自分にはそれを登れるだけの能力や環境がないことに絶望したのだろうか。おそらく、高い山に登ろうとしている創作者にとって、日常生活は無駄なエネルギーの漏えいの塊でしかないのだから。

誰も登ったことのない、ものすごい山に登るには、ある意味、世捨て人のようになるしかないのかもしれない。

きっと、そんな山に登れるのは、その日々の鍛錬が十分にできる贅沢な時間とエネルギーを確保できる一部の人間だ。

だから、日常生活に追われてエネルギーをどんどん消耗している私のような人間には、それ相応の山しか目指せない。

だけど、一つのことに全てを注ぎ込むのは危険と隣り合わせだとも思う。

高い山を目指し続けて、その準備に自分の全てを費やし過ぎたら、高い山を登るのを諦めざるを得ない時、他の日常生活について、何も出来ない自分に呆然とするかもしれない。知らないうちに山登りしかできない人間になってしまったのだ。

高潔すぎるのは、背水の陣だ。

逃げ道も準備してしておかなければ。

きっと身の丈にあった山を目指すことが、一番幸せだし、そんな目指せる山があるってだけでも幸せなんだ。

最後に以下のショーペンハウアーさんの文章を紹介したい。

「生命は動きに在る」というアリストテレスの言葉はあきらかにその通りである。したがって、肉体的な生命は不断の運動をその本質とし、不断の運動によってのみ存続するのと同じように、内面的・精神的な生命もたえず活動を求めている。行為か思考か、何かに従事することを求めている。その証拠に、人間はこれといってすることがなく、ぼんやりしてるとき、すぐに手や何かの道具でこつこつたたくような動作をする。つまり私たちは本質的に憩いなき生を営んでいる。だから何もしないでいると、おそろしい退屈に見舞われ、まもなく我慢できなくなる。そこでこうした衝動を調整すればよく、その人なりのやり方でかなえれば、より満足が得られる。つまり、何かをする、できれば何かを成し遂げる、せめて何かを学ぶといった活動は、人間の幸福に欠かせない。人の能力は用いられることを求めてやまず、人はそうした成果を何とか見たいと願う。しかしながら、この点で最大の満足が得られるのは、何かを「作る」こと、仕上げることだ。

(引用:ショーペンハウアー『幸福について』pp.261-262)

私は何かを「作る」ため、仕上げるために文章を書き続けたい。

精神や生命の流れで、もう通り過ぎて手の届かない場所に離れていってしまっても、文章としてその輪郭は残すことはできるのだから。

いつか私の高い山に登るための準備として。



儚い蝉が私にくれたもの

朝、子どもを幼稚園に送って行く時、家からでて子どもが、

「あっっ!」

と小さく叫んだ。

「どうしたどうした?」

と、近づくと、子どもの足元に蝉の抜け殻が転がっていた。

「この蝉の抜け殻、少し動いたの!」

「あーそれは、抜け殻じゃなくて蝉の幼虫だね。」

最近、『うまれたよ!セミ』という絵本を一緒に読んで、蝉の幼虫は羽化するまでに7年ぐらい土の中で、せっせと木の根の汁を吸って生きている、という事を知り、子どもと驚いたものだ。

ほんの2週間程度の蝉の姿しか、私たちは見ていないけれども、ここまでくるのには、幼稚園児よりも長く生きているんだねー!実は人生の先輩なんだね!・・・なんてベッドタイムで子どもと話していた。

その蝉の幼虫が、足元に転がっている。

私はとっさに、その子を捕まえて、家に走って入り、網戸につけた。

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「この子、家に帰ったら育てようねー!白い蝉が見れるかなー!」

と嬉しそうに子どもは話した。

私は幼稚園の送りから家に帰って、その網戸についた幼虫を見た。その子はもう微かにしか動いていなかった。

ん?蝉の幼虫はこんな朝の時間に羽化するのか?

気になって、携帯で「蝉の幼虫 羽化」で調べた。

ネットで調べたら、蝉の幼虫は、夕方に土から出て、近くの木に登り、19時ぐらいに2時間ぐらいかけて夜に羽化すると書いてあった。

ああ、そうか。この子は、土の穴から出て、羽化するための場所を見つけれずに、夜中、朝までもがきながらずーっと彷徨っていた、いわゆる脱落組の子だったのだ。

もう、きっと死ぬのだろう。

網戸の幼虫を見た。

微かに、命の火がちろちろと燃えていて、もう消えそうだった。

あ、もうダメだな。

私は隣の部屋へ行き、開いた窓近くの畳の上でゴロンとなった。

ぼんやり、夏らしい青い空を眺める。

網戸からは風ではなく、大量の鈴が鳴り響くような蝉のミンミンが頭の中に入ってきて私を一瞬支配した。

こんなにも無数の蝉達が何処かの木で鳴いている。

だけど、あの蝉は・・・。

その大合奏を聞きながら、私は隣の部屋の網戸の死んでるか死んでいないか分からない蝉に意識を向けた。

蝉は約7年もの歳月を土の中で過ごし、あの空に飛び立つその時を目指して生き続けた。

だけど・・・・

網戸の蝉はこの明るく青く美しい空を飛ぶ事はできなかった。

もし、蝉の命が子孫を残す為だけのものだとしたら・・・

この蝉の人生(虫生)は一体なんだったのだろう?

ただ、ふるいのあみ目からこぼれ落ちた無駄な命だったのだろうか。

生存競争に負けた命。

大量の魚の卵からかえった幼魚のほんの一部しか成魚になれないように。

大部分の存在は、そんなふうに一部の勝ち組が残る為に、確率の問題のみで存在するものなのか?

勝ち組以外の存在は無駄なのか?

何にもなれないものは無駄なのか?

私の中で渦巻いている思考も?

人知れず色々考えて、悩んで、勝手に哲学している、この頭の中の存在も?

全て無駄なのか?

無駄なら何で、この世界の創造神は私という人間を思考するようにつくったのだろう?

もし、「この思考する」という行為が何にもなれなかったら、いったい何のために今の私の「思考」は存在するのだろう。

この私の「思考」はあの、蝉になれなかった、殻を破れなかった、空を飛ぶ事のなかった、もぞもぞと、無駄に虚しくもがく動きのようなものなのだろうか。

特に何にもなることのない無駄なエネルギーの消費。

空を飛ぶこともなく、何にもなることもなく。

大人になって子孫を残せなかった、大量の幼魚のような…そんな存在なのか。

ふっと、メランコリーな渦にのまれそうになる。


・・・・いや、あの蝉の存在は無駄ではなかった。

現に、あの蝉の存在は私に文章を書かせたではないか。私の心を動かしたではないか。

すべては、相互に影響しあっている。

だから、無駄な命なんてない。

虫の命も、「子孫を残すだけが目的」なんて単純なものではない。 

生存競争にふるいに落とされたとしても、存在していることに「無駄」も「必要」もない。

存在していること自体が、すでに有意義なんだ。

存在しているだけで、世界に何らかの形で影響しているんだ。

・・・と、私は自分に都合のいい解釈で、この思考に一旦けりをつける事にした。

と、ぼんやりと頭の中でいつものように有意義がどうか謎の思考をしながら、起き上がってあの蝉がいる網戸まで行くと…

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なんと!あの死んだと思っていた蝉が殻を破って出てきているではないか!

私はもう力尽きたとばかり思っていたので、びっくらこいて、蝉の間近までひっついて目を見開いた。生々しく白いからだが出てきている。

死んだと思っていたのに、殻を破って出始めている!もうすぐ死ぬはずなのに!

現に目の前の蝉は午前11時半で羽化しようとしている。

足や手がプルプル震えているように錯覚するほど、思いっきり殻からでようと踏ん張っている。

精一杯生きようとしている。

私は人知れず感動した。目の前の一匹の蝉に。

生きようとする力はすごい。

一匹の蝉ですら、こんなにも必死だ。

もう何にもなれなくても、そんなの関係ない。

一生懸命生きる命の輝きは、それだけで美しい。

それで、私は思った。

先程「この蝉は、あの空に飛び立つその時を目指して生き続けた」と書いた。

だけど、それはきっと私の勝手な妄想だ。

蝉はただ、今一瞬一瞬を精一杯生きているだけ。

その繰り返しで、大人になれる蝉もいれば、途中で命が終わる蝉もいる。

ただ、それだけなんだ。

人間みたいに〇〇が無駄とか〇〇が羨ましいとかきっとない。

ただ、今を精一杯生きているだけ。

土の中で、一生懸命木の根の汁を吸っている時も、木にとまって一生懸命鳴いている時も、同じ今だ。

今を全力で生きている。

何の為に生きているのだろう・・・成虫になれなかったらどうしよう・・・なんて決して考えることなく、今に全力投球だ。

ああ、何で人間は余計なことをこんなにも考えるのだろう。

何で、人間は今を生きるだけでないエネルギーをこんなにも垂れ流すのだろう。

人間も虫のように、今だけに今のエネルギー全てを捧げて生きれたら、ずっと楽なのに・・・と思った。

だけど、それでもやっぱり人間の方がいい・・・やっぱりあれこれ思考できる人間が私はいい。そうも思った。

とにかく、目の前の今に命を燃やす蝉に感動するのと同時に、切なく泣きたくなるような気分になった。

なんで、君はそんなにも生きるのを諦めないんだ?



そして・・・蝉は半分だけ出てもう動かなくなった。

そして、子どもが帰る頃には半分だけ茶色い蝉になった。



次の日の朝、その蝉は私が寝ている間に夫にどこかにポイっとされていた。

「あの気持ち悪い蝉何?」

って言われたのでした。








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