悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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愛国心や宗教に陶酔している人が少しうらやましいと感じてしまう無気力主婦は私だけ?って話

3歳児と1歳児の育児中のヒエヒエです。

最近どうしようもなくつまらないです。

いつからこんなにつまらなくなったのかわかりません。

そして、このつまらない事がどうしようもなく辛く感じます。

 

昔は、運命の相手との出会いに夢を抱いていたものです。

ロマンチックな出会いや恋に憧れていたものです。

 

でももうその願望もありません。

 

どうしようもなく欲しいものもない。

 

何に向かって頑張ればいいのかわからない(子育て頑張れよってつっこみはなしで)。

 

情熱的になりたい。でもなれない。

昔のように、寝る暇や食べることを惜しんで熱中することもない。どこからもエネルギーがわかない。

 

今日の朝ぼーっとテレビでニュースをみていた。

 

北朝鮮のミサイルを発射する映像。昭恵夫人、右翼思想の幼稚園。などなど。ノンスタの井上・・・まあ、これはどうでもいいや。

 

これらのニュースを見ながらボーっと、自分達を特別な存在と思いたいのは人間の性なんだろうなあ・・・と思った。

 

誰だって、自分が特別な存在と思いたい。

自分達の国がどこよりも尊大だと信じたい。この世の超越的な存在に近いものと信じたい。誰だって自分を特別だと思いたい。自分の存在や行動に価値を見出したい。それをお手軽に提供してくれるのが宗教だと思うけれど・・・。まあこの話はおいておこう。

 

だから、スポーツだって盛り上がる。戦争だって盛り上がる。自分の国が強いと、自分に反映して、酔いしれることができる。自分の価値を高めることができる。そして「熱狂、熱中」できる。大きなエネルギーを生む。そしてそれが時に判断力を鈍らせる。何かを見失う。ヒトラーだって、「人類の高みを目指して」みたいな感じでゲルマン民族を熱狂させまとめたんじゃない?よくわからないけど。

 

これがいいことか悪いことか今の私にはわからない。

 

でも確実に言えることは、宗教、スポーツ、国に熱中している人はとてもエネルギッシュで生き生きしている。少なくとも今の私よりは。そして、正直少しうらやましくも思う。

 

私のもとに週一で宗教の勧誘?に来ている奥様だって、ご丁寧に毎回3分ほどのプチ講義を私のためにインターホン越しにしている。しかも几帳面に書かれたメモ書きを投函して帰っていく。その熱意はいったいどこから来るんだ?しかも私のそっけない相槌で、なぜ毎週私の家に足を運ぶ気になる?

 

明確な目的があると強く突き進むことができると思う。迷いなく突き進めるという事は本当に強みだ。

だから宗教に熱中している人はある意味強いのだと思う。

 

何のために生きるのか。

この苦痛に意味があるのか。

何をどう頑張れば正しいのか。

 

こんな誰もが直面する明らかな正解がない悩みに単純明快な答えを用意してくれているのが「宗教」だ。宗教は巧妙に作られたエネルギッシュに生きるための思考法のマニュアルや信者の一体感、優越感などを与えてくれる人間の知恵の産物だと思う。

 

今生きている世界は本当の世界でなく死後の世界が真の世界だ、とか。

輪廻転生を繰り返してその輪から解放されてたとき苦しみから解放される、とか。

 

自分の今生きていること、努力に理由づけをしてくれる。こんな考えを信じている方が「死んだら無だよ、すべてが終わり、その努力や苦しさに何の意味もない」なんて考えの人より、そりゃあエネルギッシュに生きれるでしょ。今頑張れば、死後得できる!ってさ。

 

どうせ、死なないと死後についてわからないんだから、「死んだら終わり」なんて考えより、「今頑張って生きていることが死後にも関係する」考え方の方が合理的な気もする。同じ生きるなら、無気力に生きるよりエネルギッシュに生きるほうがいい。こじつけでもなんでもいいからさ。

 

昔は、宗教を強く信じて生きている人は「真実を知らない」「哀れ」なんて自惚れた考えだった。

 

でも、最近思う。本当に哀れなのは強く信じるものがない自分のような人間の方かもしれない・・・なんて。

 

 

でも、私は宗教のような、明らかな根拠がない話を信じ込むことがどうしてもできない人間みたいで。おそらく宗教の世界を疑わずに頭から信じ込むには色々と知ってしまった・・・のかもしれない。どこかの遊牧民族に生まれたら信じてたんだろうけどさ。宗教に没頭はきっとできない。そして、スポーツに熱狂したり、日本国万歳!みたいにもなれなくて。

 

日本国万歳!みたいなのに憧れてたりしたりする。日本人である自分を誇りに思う!なんてさ。でもなんで日本ってこの日本万歳!的な感じにすぐ敏感に反応して批判したりするんだろう。はっきり言って日本人なら当たり前でしょ。こんな感情。日本の国だけでなくどこの国だって、自分の国万歳!って感じじゃん。でも日本人って日本万歳!みたいな感情を持ったら悪いみたいな風潮があるよね。不思議。強気な自己肯定感情を美徳としないからかな。謙虚なのが一番!みたいな?だから、ぐいぐいくる外国に圧倒されっぱなしなんだよね。きっと。

強く信仰している宗教もない、強い愛国心も持ち合わせていない、そんな人が多い日本。日本人って拠り所がないよね。だからひたすら必死に働いて目をそむけているのかな。いろんなことから。まじめを言い訳にした逃げだよね。それが悪いとは言わない。言えない。でもなんだか哀れだとは思う。

 

そして、ニーチェのいう「末人」を日本は大量生産しているのだろうか。

 

ちなみに「末人」とは

 

末人(まつじん)とはフリードリヒ・ニーチェによる哲学によって用いられていた概念である。ツァラトゥストラはこう語ったで述べられ、超人の対極にあり最低軽蔑すべき者とのことである。末人というのは社会において生きる大多数の中流市民でもある。彼らは病気になることと疑うということをとして考えて生きている。そして互いが摩擦を起こさないように、ゆっくりと歩むようになる。彼らは貧しくもなく富んでもおらず、これらはいずれも煩わしいものであるとされる。人々がこのようになれば、人々を統治しようと誰も思わなくなるし、他人に服従しようとも誰も思わなくなる。人々がこのようになれば社会には牧人はいなくなり誰もが平等であり、誰もが平等を望む社会ということでもある。末人の生き方というのは、ひたすら安楽を求めるということである。社会においての最高価値が信じられなくなりニヒリズムが広がってきたならば、人々は頑張らなくなり創造性を欠いた安楽を求める人間ばかりになるということであり、このような状態になった人間というのが末人ということである

 

末人 - Wikipediaより引用

 

 

「末人」って生きる意味を見いだせない、平穏な暮らしと健康だったらいいやっていう、向上心と考え続けることを放棄または忘れた人・・・正にそれになりかけてるよ私。でもさ、今の日本に住んでいる大部分の人はこんな感じじゃない?

 

ちなみにニーチェのいう「超人」とは

 

ニーチェの言う「超人」とは「生の高揚」をとことん実現した人間のことです。

「超人」はルサンチマン(恨み、妬み、嫉妬の感情)も持たず、ちょっとイヤなことがあってもすぐ忘れてしまい、これまでの価値観にとらわれず、絶えず創造的にクリエイティブなパワーにあふれていて生きていける人のこと。

ニーチェ「超人」絶えず創造的にクリエイティブに生きている人より引用

 

とのこと。この「超人」という言葉を知った時から、私は「あー超人ってなんて素敵なんだ!」って思っていました。

 

だけど私には「超人」なんてほど遠い。だけど「末人」にもなりきれない。なりたくない。でも「生の高揚」なんてどうやったら得られるんだ?今の私にはわからない。もう何に対してもわくわくどきどきしない。その原因もわからない。

何を目的に生きたらいいのかもわからない。こんな自分がただただ悲しい。

 

なんとなく流れ続ける日々がまるで無駄に流れる湧き水のようにどんどん流れていく。その水が大事なのはわかっている。有限なのも。でも・・・でも私はただ流れ続けるその水が無駄に流れ続ける様子をぼんやり見ることしかできない。その水を有効活用する気力もない。ただただ、もったいないもったいないと、どこかで思いつつ、半分あきらめつつ、どこかでは焦りつつ・・・ぼんやり眺めているだけ。

 

熱くなれるものに出会いたい。なんでもいいから。

 

生き生きと輝いている自分を子供達に見せれるようになりたい。

 

生きるってこんなに素敵で楽しいんだよって。

 

最後に、私のお気に入りの本「史上最強の哲学入門(著者:飲茶)」の大好きな文章を紹介して終わりとします。

 

 

超人になりたい。強くなりたい。まっすぐに人生を生きたい。そう素直に願い、それを「神」にも「国家」にも誰にも強制されず、自分で決めて自分で実行して生きる。それ以外に僕たちが満足していき、満足して死ねるような、そういう人生は決して起こりえないのではないだろうか。

 

なぜなら、「神」や「道徳」といった既存の価値観は、「神が死んだ世界」に生きる僕たちにとって、もはや生きるべき価値観にはなりえないのだから。

 

史上最強の哲学入門p279より引用

 

 

 

 

 

 


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