悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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子どもには偉大な人間になって欲しいと思っていた私は愚かだった

私は子どもには、偉大な人間になって欲しいと思っていた。

そして、それを望むことは親として当たり前だと思っていた。

偉大な科学者。

偉大な発明家。

歴史に名を残すような、立派な事をする人間。

とにかく、なれるかどうかは別として、そこを目指したいと考えていた。

自惚れているかもしれないが、自分の子どもにはそうなって欲しい…と思っていた。

だけど、今ではそんなことはこだわっていない。

もちろん、そのような人間に、もしなれるなら素敵だなあ…とは少しは思っている。

だけど、「別に…」という感じだ。

それは「偉大になること」は子どもの幸せとは全く別問題だと気づいたからだ。

そう思うようになったきっかけは知り合いのママさん達のちょっとした会話からだ。

「この子は、将来幸せな結婚が出来たらそれだけでいいと思っている」
「やっぱり、自分の子どもには波瀾万丈な人生なんて望まないじゃない」

このような発言を聞いて、目から鱗が落ちたような経験がある。

そうか、別にみんながみんな、我が子に高みを望んでいるわけではないんだ。

高みなんて望まなくてもいいんだ。

むしろ望まないものなのかも。

そう思った。

大体、「偉大な人」と言うのは、とてつもない経験や苦労をしている訳だ。

極論、普通の一般人がぼーっとテレビを観て笑っていたり、のんびりと遊ぶ時間を犠牲にして、何かを必死にしてきた人達なのだ。

とある偉大な研究者は、偉大な功績の為に「真綿でずーっと、首を絞められているよう」な努力をしてきたと表現していた(ノーベル化学賞の受賞者「吉野彰さん」のテレビでのコメントだった気がします)

偉大な事を成し遂げる為に、周りから馬鹿にされたり、罵られたりする暗いトンネルをずーっとひたすらストイックに歩き続けれる何かがなければならない。

偉大な人が偉大に見えて「いいなー」なんて口が裂けてでも言うべきじゃないんだ。

その偉大に見えた姿は「氷山の一角」のようなもので、水面下には信じられないほどの努力の積み重ねが隠れているのだ。

偉大な人と「あなたに『今までに私が経験してきた苦しみ』と引き換えにこの『偉大さ』をあげましょうか?」なんて交渉ができたとしても、絶対にのるべきじゃない。

おそらく、想像以上の長い長い地道な…血の滲むような気の遠くなるような努力、凄まじい経験をしているのだろうから。

何か素晴らしいものをアウトプットする為には、それ相応のインプットが必要な訳で、しかもそのインプットが素晴らしいアウトプットになる為には、また何か特別な才能や、偶発的な特別な機会が必要な訳だ。

その偶発的な機会がポジティブな内容とは限らない。

例えば、それが「戦争」という機会かもしれない。

「戦争」がきっかけで偉大なアウトプットをした偉人は多くいる。

戦争を経験した人間以上に戦争を知ることはできない。

とてつもない、暗く孤独な夜を何度も何度も通り過ぎないと見えない世界を偉人達はきっとみた。

そんな事をさせてまで我が子を偉人にさせたいか。

偉大な事を成し遂げる為に戦争のような辛い経験をさせたいか(かなり極論だが)

自分にならともかく、子どもにそれを強いるのはかなりのお門違いだ。

しかも、「偶発的な機会」なんて親の意図でどうにかなる問題ではない。

そもそも我が子が苦しい思いをすることを別に望んじゃいない。

辛い思いをする物語の主人公の立場なんかより、主人公以外の平和になった世界で、平凡だけど幸せそうな生活をしている住人の立場の方を親は子どもに望んでしまうものではないか。

別に子どもに波瀾万丈な人生を望んでいない。

そもそも、子どもが偉大な人間になれるかどうかなんて、親の力が及ぶ範囲外の問題なのだ。


ただ子どもが、これからの世界で強く逞しく生きれて、色々辛いことはあるけれど、なんだかんだ言ってトータル「生きることって素晴らしいな、世界は美しいな」と感じてくれたら、本当にそれだけで十分だな…と思う甘い親心なのでした。

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