いつも気まぐれなブログにお付き合いいただきありがとうございます。
最近、ブログがメモ帳代わりになっているブログです。
その時、頭でぐるぐると渦巻いていて、たまたま繋がった何かを残しておきたくて、素直に文章に残しております。
最初は、有益な情報(子育てに役立つ情報等)を提供せねば!みたいな熱意はあったけれども、もうその熱意の炎は消え失せつつあります。
なんていうか、これだけ情報が溢れている世の中、「私がわざわざ情報提供しなくちゃ!」みたいな事があまりないのですよね。
しかも、書いたとしても、もう大量の似たような記事に埋もれて日の目を見なくなる事が分かっているのに…それを分かっていてストイックに書けるほどの余分なエネルギーがないのですよ。
…それに、私自身があまりその行為にやりがいを見出せない…というのが、決定的な事なのだけれども。
まぁ、なんていうか、その流れに完全についていけなくなった…というわけで、自分の好きなように、自分が文として残しておきたい事をブログに書いております。
私は最近自分の書いた記事を「こんな記事を生み出して一体何になるんだろうなぁ…」とぼんやりとした虚しさに襲われます。
ですが、「もしかしたら、もしかしたら、私の記事が誰かの心に響く事があるかもしれない!」という、何%の可能性かわからない…雀の涙ぐらいの可能性にかけているのですね。
もし、これが自分だけの家のノートに書いたとしたら、その可能性は0な訳で(たまたま入った泥棒がみたり、私の死後の遺品整理でたまたま発掘されちゃって見られちゃった!…的なハプニング以外)
というわけで、自分の中に何かが紡げたら、詩なんかでもちょいちょい投稿しちゃうわけです。
正直、詩とかって学生とか若い頃は誰かにみられたら、「もう痛いやつ扱い確定爆弾」みたいに危険なものみたいで、「詩を書きたい」なんて、思ってもダメな危険思想的に排除してきたわけです(なんという偏見!)
ですが、大人になって、自分で頭の中にあることを表現しようとすると「詩」みたいな形に表れる事が多く、詩を書く事は世間で思われているような「かっこつけてる」とは全く真逆の位置にあるような気がしています。
むしろ無駄を出来る限り排除した、裸のようなものだと思います。
ありのまま…みたいな。
だから、見せると恥ずかしいし、見る方も少し恥ずかしい気がするのかもしれません(笑)
ですが、やっぱり私は恥ずかしいという感情よりも、詩の美しさに着眼したい。
詩を書く為には、無駄な装飾物を全てひっぺがして、さらにその剥き出しのありのままの姿を美しいと感じれる心が大事な気がします。
あと、その剥き出しの姿を愛することも必要な気がします。
ですが、愛せるし美しいと気づけても、それを表現できなかったり、表現できても人前に出せなかったら、結局誰のもとにも届かずに、心を揺さぶる事はない。
心を揺さぶる文章に憧れています。
そんな美しい文章をかけるようになれたら、素敵だなぁと思います。
詩という形に限らず、素敵な文章がかけるようになりたいです。
きっとその為には沢山文章を書かないといけない。
私が今ブログを続けている動機はここに根本があるように思います。
そして最近、もしそのような美しい文を私が書けたとしても、その文を心に響く人の元に届けるにはどうしたらいいのだろう…という絶望的な疑問がふっとわきます。
人間、同じ音楽でも、その音楽が心を揺さぶる時期とそうでない時期があったりするもので。
文章も同じで、その文章が心を揺さぶられる状態の人間に、まさにそのタイミングでその文章に出会える事って凄い事なんだな、と。
それを考えると、自分の心に響いた文章との出会いって、奇跡的な気がします。
時空を飛んで私の心を揺さぶってくれた。
もしかしたら、その著者と同じ時代を生きた1番の友人でさえ揺さぶる事のできなかったその文章が、時空を超えて私の心を揺らしているのかもしれない。
一体どういう力が働いて、私の元に届いたのだろうか…。
本当にこのような不思議な出会いは、目には見えない何か神秘的な力が働いているように思えてならないのです。
「強い思い」というエネルギーは、目には見えない形ですが、確かに存在していて、世の中に影響を及ぼし続けているのだなぁ…と。
この世界は不思議な事でいっぱいです。
因みに、最近私の心を揺さぶった本は、ショーペンハウワーの「読書について」です。