朝、子どもを幼稚園に送って行く時、家からでて子どもが、
「あっっ!」
と小さく叫んだ。
「どうしたどうした?」
と、近づくと、子どもの足元に蝉の抜け殻が転がっていた。
「この蝉の抜け殻、少し動いたの!」
「あーそれは、抜け殻じゃなくて蝉の幼虫だね。」
最近、『うまれたよ!セミ』という絵本を一緒に読んで、蝉の幼虫は羽化するまでに7年ぐらい土の中で、せっせと木の根の汁を吸って生きている、という事を知り、子どもと驚いたものだ。
ほんの2週間程度の蝉の姿しか、私たちは見ていないけれども、ここまでくるのには、幼稚園児よりも長く生きているんだねー!実は人生の先輩なんだね!・・・なんてベッドタイムで子どもと話していた。
その蝉の幼虫が、足元に転がっている。
私はとっさに、その子を捕まえて、家に走って入り、網戸につけた。
「この子、家に帰ったら育てようねー!白い蝉が見れるかなー!」
と嬉しそうに子どもは話した。
私は幼稚園の送りから家に帰って、その網戸についた幼虫を見た。その子はもう微かにしか動いていなかった。
ん?蝉の幼虫はこんな朝の時間に羽化するのか?
気になって、携帯で「蝉の幼虫 羽化」で調べた。
ネットで調べたら、蝉の幼虫は、夕方に土から出て、近くの木に登り、19時ぐらいに2時間ぐらいかけて夜に羽化すると書いてあった。
ああ、そうか。この子は、土の穴から出て、羽化するための場所を見つけれずに、夜中、朝までもがきながらずーっと彷徨っていた、いわゆる脱落組の子だったのだ。
もう、きっと死ぬのだろう。
網戸の幼虫を見た。
微かに、命の火がちろちろと燃えていて、もう消えそうだった。
あ、もうダメだな。
私は隣の部屋へ行き、開いた窓近くの畳の上でゴロンとなった。
ぼんやり、夏らしい青い空を眺める。
網戸からは風ではなく、大量の鈴が鳴り響くような蝉のミンミンが頭の中に入ってきて私を一瞬支配した。
こんなにも無数の蝉達が何処かの木で鳴いている。
だけど、あの蝉は・・・。
その大合奏を聞きながら、私は隣の部屋の網戸の死んでるか死んでいないか分からない蝉に意識を向けた。
蝉は約7年もの歳月を土の中で過ごし、あの空に飛び立つその時を目指して生き続けた。
だけど・・・・
網戸の蝉はこの明るく青く美しい空を飛ぶ事はできなかった。
もし、蝉の命が子孫を残す為だけのものだとしたら・・・
この蝉の人生(虫生)は一体なんだったのだろう?
ただ、ふるいのあみ目からこぼれ落ちた無駄な命だったのだろうか。
生存競争に負けた命。
大量の魚の卵からかえった幼魚のほんの一部しか成魚になれないように。
大部分の存在は、そんなふうに一部の勝ち組が残る為に、確率の問題のみで存在するものなのか?
勝ち組以外の存在は無駄なのか?
何にもなれないものは無駄なのか?
私の中で渦巻いている思考も?
人知れず色々考えて、悩んで、勝手に哲学している、この頭の中の存在も?
全て無駄なのか?
無駄なら何で、この世界の創造神は私という人間を思考するようにつくったのだろう?
もし、「この思考する」という行為が何にもなれなかったら、いったい何のために今の私の「思考」は存在するのだろう。
この私の「思考」はあの、蝉になれなかった、殻を破れなかった、空を飛ぶ事のなかった、もぞもぞと、無駄に虚しくもがく動きのようなものなのだろうか。
特に何にもなることのない無駄なエネルギーの消費。
空を飛ぶこともなく、何にもなることもなく。
大人になって子孫を残せなかった、大量の幼魚のような…そんな存在なのか。
ふっと、メランコリーな渦にのまれそうになる。
・・・・いや、あの蝉の存在は無駄ではなかった。
現に、あの蝉の存在は私に文章を書かせたではないか。私の心を動かしたではないか。
すべては、相互に影響しあっている。
だから、無駄な命なんてない。
虫の命も、「子孫を残すだけが目的」なんて単純なものではない。
生存競争にふるいに落とされたとしても、存在していることに「無駄」も「必要」もない。
存在していること自体が、すでに有意義なんだ。
存在しているだけで、世界に何らかの形で影響しているんだ。
・・・と、私は自分に都合のいい解釈で、この思考に一旦けりをつける事にした。
と、ぼんやりと頭の中でいつものように有意義がどうか謎の思考をしながら、起き上がってあの蝉がいる網戸まで行くと…
なんと!あの死んだと思っていた蝉が殻を破って出てきているではないか!
私はもう力尽きたとばかり思っていたので、びっくらこいて、蝉の間近までひっついて目を見開いた。生々しく白いからだが出てきている。
死んだと思っていたのに、殻を破って出始めている!もうすぐ死ぬはずなのに!
現に目の前の蝉は午前11時半で羽化しようとしている。
足や手がプルプル震えているように錯覚するほど、思いっきり殻からでようと踏ん張っている。
精一杯生きようとしている。
私は人知れず感動した。目の前の一匹の蝉に。
生きようとする力はすごい。
一匹の蝉ですら、こんなにも必死だ。
もう何にもなれなくても、そんなの関係ない。
一生懸命生きる命の輝きは、それだけで美しい。
それで、私は思った。
先程「この蝉は、あの空に飛び立つその時を目指して生き続けた」と書いた。
だけど、それはきっと私の勝手な妄想だ。
蝉はただ、今一瞬一瞬を精一杯生きているだけ。
その繰り返しで、大人になれる蝉もいれば、途中で命が終わる蝉もいる。
ただ、それだけなんだ。
人間みたいに〇〇が無駄とか〇〇が羨ましいとかきっとない。
ただ、今を精一杯生きているだけ。
土の中で、一生懸命木の根の汁を吸っている時も、木にとまって一生懸命鳴いている時も、同じ今だ。
今を全力で生きている。
何の為に生きているのだろう・・・成虫になれなかったらどうしよう・・・なんて決して考えることなく、今に全力投球だ。
ああ、何で人間は余計なことをこんなにも考えるのだろう。
何で、人間は今を生きるだけでないエネルギーをこんなにも垂れ流すのだろう。
人間も虫のように、今だけに今のエネルギー全てを捧げて生きれたら、ずっと楽なのに・・・と思った。
だけど、それでもやっぱり人間の方がいい・・・やっぱりあれこれ思考できる人間が私はいい。そうも思った。
とにかく、目の前の今に命を燃やす蝉に感動するのと同時に、切なく泣きたくなるような気分になった。
なんで、君はそんなにも生きるのを諦めないんだ?
*
そして・・・蝉は半分だけ出てもう動かなくなった。
そして、子どもが帰る頃には半分だけ茶色い蝉になった。
*
次の日の朝、その蝉は私が寝ている間に夫にどこかにポイっとされていた。
「あの気持ち悪い蝉何?」
って言われたのでした。