最近心と体はよく似ていることに気付いた。
体を鍛えないと、よりレベルが高い運動が行えないように、心も鍛えないと、より高い思考が行えない。
普段運動していない人間がいきなり42キロ走れ!って言われても走れない。日々体を鍛えているから、走れるんだ。
心?精神?も鍛えていないと急にレベルの高い思考なんてできない。
それをしようとすると、心がぶっ壊れる。
普段走る練習をしていないのに、42キロ走るのは不可能なように。
日々の積み重ねの鍛錬が大事なんだ。
そんなハードな内容でないにしても、体にとっては適度な運動は誰にとっても健康にいいのはもう周知の事実だ。
それは、体自身が常に運動しているからだ。
じっとしていても、体の中は常に動いている。胃や心臓や腸・・・とにかく動き続けている。
中は常に動いているのに、本体は静止したままでは、中の動きに負担がかかることは明白だ。
流れる川の中でじっとしているより、流れの方向に一緒に歩いた方が自然に決まっている。
だから、自分の体の状態にそった、運動を適度にするのがとてもいいのだろう。
精神も同じだ。
精神の状態にあった思考をするのが自然なんだ。
だけど、高みを目指すなら、少し話は変わってくる。
最初に述べたように、体が出来上がっていないのに、急にものすごい山なんて登れないように、心も急にものすごいことを考えれない。
ものすごい山を登るには、そのための日々の鍛錬が必要なんだ。体を山登りに耐えれるような状態に仕上げるのだ。
自転車で急な坂を登るには、そのために助走をつけなくてはならない。ゆっくり走っていたんでは、急な坂なんて登れるわけがない。
その坂のレベルを把握して、その坂を上り切るのに耐えうるスピードをもって坂にのぞまなければ。
別に、普段の生活を営むぐらいだったら、朝の散歩程度の運動で十分なんだ。
だけど、健康に過ごすのと、オリンピックにでようとするのとでは訳が違うんだ。
朝の散歩なんかで、オリンピックにはでられない。
普通の人とは違うレベルの思考をしたければ、それ相応の負荷を精神に強いなければならない。
じゃあ、体は運動すればいいが、心は?
心も運動すればいい。つまり、心が動かされることをすればいい。
体だって、強くなりたい競技によって鍛える箇所が異なるように、心も同じだ。
哲学、科学、芸術、etc.
自分のしたいこと、心が燃えるものをみつける。心が熱くなるかどうかで判断すればいい。
つまりわくわくドキドキすることをすればいい。
そしてわくわくドキドキし続けるために、色々な適した手段で心を鍛えればいいんだ。
スポーツだって、きっとオリンピックに出るような選手の原動力は「楽しい」だ。
それを楽しみ続けるために、色々と試行錯誤して日々自分に適した練習を模索しながら行っているのだ。
心だって、ドキドキワクワクし続けるためには、日々のそんな練習が必要なんだ。
それは常にドキドキワクワクする事じゃない。
とっておきのドキドキワクワクの山に登れるように日々準備しておくってこと。
でもさ、どんなスポーツでも最適な年齢ってあるじゃない。
同じように精神もあるのかなって。いや、きっとある。
どんな人間も肉体は衰える。
それは、自然な流れだ。
太陽だって、自分の持っているエネルギーを放出し続ければ、いつかはエネルギーが切れる。
質量が重い星ほど、星の寿命は短いって聞いた。
だから、本人がどんなに体を燃やそうとしたって、心を燃やそうとしたって、生命の老化への流れには逆らえないし、もって生まれた素質も変えれない。
60歳でオリンピックなんて不可能でしょ?まあ、競技の種類によっては違うかもしれないけれど。
だからね・・・精神世界もそこは同じでないと信じたいけれど、きっと若い時にしか到達できない類の高い山はあるとは思う。
60歳になって初恋なんてないでしょ?そんな感じ。
きっとさ、勝手な妄想だけれど、芥川龍之介は、「ぼんやりとした不安」が原因で自殺したらしいけれども、彼はエベレストのような危険な山を生涯登り続けることを自分の存在理由にしてしまったのではなかろうか。それが普通に生きていると不可能なことを直感で感じ取ってしまった。それか、まだまだエベレストなんかよりもっと高い山があることは確認できるけれども、自分にはそれを登れるだけの能力や環境がないことに絶望したのだろうか。おそらく、高い山に登ろうとしている創作者にとって、日常生活は無駄なエネルギーの漏えいの塊でしかないのだから。
誰も登ったことのない、ものすごい山に登るには、ある意味、世捨て人のようになるしかないのかもしれない。
きっと、そんな山に登れるのは、その日々の鍛錬が十分にできる贅沢な時間とエネルギーを確保できる一部の人間だ。
だから、日常生活に追われてエネルギーをどんどん消耗している私のような人間には、それ相応の山しか目指せない。
だけど、一つのことに全てを注ぎ込むのは危険と隣り合わせだとも思う。
高い山を目指し続けて、その準備に自分の全てを費やし過ぎたら、高い山を登るのを諦めざるを得ない時、他の日常生活について、何も出来ない自分に呆然とするかもしれない。知らないうちに山登りしかできない人間になってしまったのだ。
高潔すぎるのは、背水の陣だ。
逃げ道も準備してしておかなければ。
きっと身の丈にあった山を目指すことが、一番幸せだし、そんな目指せる山があるってだけでも幸せなんだ。
最後に以下のショーペンハウアーさんの文章を紹介したい。
「生命は動きに在る」というアリストテレスの言葉はあきらかにその通りである。したがって、肉体的な生命は不断の運動をその本質とし、不断の運動によってのみ存続するのと同じように、内面的・精神的な生命もたえず活動を求めている。行為か思考か、何かに従事することを求めている。その証拠に、人間はこれといってすることがなく、ぼんやりしてるとき、すぐに手や何かの道具でこつこつたたくような動作をする。つまり私たちは本質的に憩いなき生を営んでいる。だから何もしないでいると、おそろしい退屈に見舞われ、まもなく我慢できなくなる。そこでこうした衝動を調整すればよく、その人なりのやり方でかなえれば、より満足が得られる。つまり、何かをする、できれば何かを成し遂げる、せめて何かを学ぶといった活動は、人間の幸福に欠かせない。人の能力は用いられることを求めてやまず、人はそうした成果を何とか見たいと願う。しかしながら、この点で最大の満足が得られるのは、何かを「作る」こと、仕上げることだ。
(引用:ショーペンハウアー『幸福について』pp.261-262)
私は何かを「作る」ため、仕上げるために文章を書き続けたい。
精神や生命の流れで、もう通り過ぎて手の届かない場所に離れていってしまっても、文章としてその輪郭は残すことはできるのだから。
いつか私の高い山に登るための準備として。