悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

【スポンサーリンク】

差別と区別がごっちゃになったままでは世界は停滞したままだ

差別と区別。

結構前から思っていたのだけれども、今の世の中、差別と区別がごちゃごちゃな気がする。

最近?昔から?「差別!差別!」って神経質過ぎる人がいて、なんか、その神経質過ぎる人の顔色をうかがって、「この悪者!」って指さされないように、みんな予防線を張るのが当たり前な世の中になっていて、なかなか本音を言えない堅苦しい世の中だよなーって。

なんか、引きこもりで繊細過ぎで、何かあるとすぐに家庭内暴力しちゃうような1人の子供に、周りの家族全員が、腫れ物に触るように、神経をすり減らしながら生活してるみたいな?

問題を解決するには、腫れ物に触るような御機嫌取りの対応ではなく、しっかりと向き合って対話するしかないというのに。

世の中、それをするには恐ろしいほどエネルギーをつかうため、解決が困難で、放置された問題が沢山ある気がする。


いや・・・本当、世の中どう考えても合理的でないことが、あちこちで散在しているなぁ・・・と。

例えば、私の知り合いに障がい者施設で働いている人がいて聞いた話なのですが、その職場では、夜ドアに鍵をかけるのが禁止らしくて、そのために度々施設を脱走してしまう人がいるらしい。

その脱走した人を探すために、勤務外の時間でも、知り合いの携帯に電話がかかってきて、その事件に巻き込まれるのです。

私は「何で鍵をかけないの?その人たびたび脱走しちゃうんでしょ?危険じゃん!」と聞いたところ、「鍵をかけたら虐待になるからかけれない決まり」とのこと。

いや・・・鍵をかけるのが差別で、もしも、その人が施設を脱走して、交通事故でもあったらそれは誰の責任なの?

「守る義務」としての「鍵をかける」も駄目なの?

そして、職員がその為にプラスアルファの労働をするの?夜の街を駆け回るの?

ですが、答えは一貫して「障がい者の自由の為」と主張する上司に従うしかない・・・とのこと。

私はちょっと「???」です。

例えば、まだ外に出たら危ない2歳児とか、勝手に外に出ないように、親がドアの管理をするのは当たり前の話でしょ?

それは差別じゃなくて区別でしょ?

「一人で外に出たら危ない」という判断ができないのなら、その人に合わせた対応をするべきです。

でも、こういう話をしたら、「障がい者を子供扱いするな!」みたいな話しになるのかしら?

私には職員と障がい者がお互い足を引っ張りあっているようにしか思えません。

別に差別をするつもりなくても、何でも「差別」の方向に話をもっていこうとする方って、自分の世界からしか周りを見ることができないのか、頭が硬過ぎるのか、何かそこに固執することで守っているものがあるのかなぁ・・・と思いました。

しかもその「差別」に固執する上司が部下が仕事でできないことがあると「このアホが!」と頭を叩くパワハラ上司という。

目を覆いたくなるような地獄絵図です。

あと、もう一つの例。

今の私の子どもの小学校の話なのですが、同じクラスに軽い発達障がいの生徒が一人いるみたいなのですが、その子が、まぁよく担任に叱られるみたいです。

その子は授業中歩き回ったりしちゃってその度に強く叱られるたりするのです。

叱られても、やっぱり歩いちゃうのですね。

叱られる→またやる→叱られる→またやる・・・その繰り返し。

歩き回るだけでなく、マスクをしなかったりして、そのことでもしょっちゅう叱られるみたいです。

担任の先生はある意味「平等」に生徒に対応してるのです。

他の生徒と同じように叱る。

健常者と同じようなレベルを障がいのある子に求める。

ものっ凄い「平等」ですよ。残酷な「平等」。

そして、その子が叱られるたびに授業がストップして、説教が長々と続くらしいのです。

うちの子は毎日毎日長い説教を聞かなければならなくてうんざりして、学校が嫌いになっちゃいました。

担任の頑なな「平等」思考により、障がいのある子も、毎日のように皆んなの前で叱られ、真面目に授業を受けている生徒は、何も非がないのに授業の時間を削られ、ずっと説教を聞かされる。

そして、気づかないうちに、その状況のきっかけとなっている障がいのある子を疎ましく感じる事につながって、結局差別意識を生じるきっかけになったりするんじゃないですか?

本当・・・・誰にもメリットがない。むしろみんなマイナス。

こんな互いに足を引っ張りあって、停滞している状況が、世の中に一体どれだけあるのでしょう。

「差別」と「区別」と「平等」と「公平」がぐっちゃになっているから、こんな訳の分からない事になるのですよね。

特に上の立場の人間が「差別」と「区別」を理解していなかったら、もう下の立場の人間は無駄に消耗して、なかなか這い上がれない蟻地獄にかかったようなものですね。

しっかり対象についての知識がないから「差別」か「区別」かが判断できないのですよ。

ほら、親戚とかが2歳の子どもに、まだ食べれないような大人が食べるようなお菓子とか大量に与えるような、そんな人が時々いるでしょ?そんな感じ。

それは、子どもについてよく理解してないのに、自分の価値感をぶつけるから起こる現象。

「こんな味薄いお菓子かわいそう・・・美味しくないよねぇ・・・」

よく聞くこんな意見は、子どもの為でなく、自分視点からしか考えれていない勘違い。こんな親戚が身近に日常的にいたら、親は子どもを守るため、苦しい戦いをすることになる。

自分の価値を押し付ける前に、相手についてよく理解しないといけない。無知は罪だと本当に思う。

子どもに子どもに適したお菓子を適した量与えるのは「差別」ではなく「区別」だ。

そこは大人と「平等」にしてはいけない。

「オリンピック」と「パラリンピック」を分けるのも、「差別」ではなく「区別」だ。

だけど、「差別」の捉え方は個人の「心」が関わってくるのが、また難儀な問題だ。

客観的に見て同じような立場でも、ある人は「全く気にしない」ような言動も、ある人には「すっごい差別!」になることがあるのだから。

しかもその「すっごい差別!」と豪語する人の中には、その人自身の考え方に問題がある場合も、全部周りに原因があると思い込んでいたりして、もう・・・混乱の元凶だったりする。

正直、そんな玉石混交地雷を事前に予知することは、かなりの難易度だし、不可能に近い気もする。

しかも、そんな地雷を踏んだら、今まで仲の良かった周りの仲間だって、その被害に巻き込まれないように全力で逃げるような・・・今はそんな世の中に思える。

地雷だらけで、行きたいところに真っ直ぐに全力で走っていけない。

平穏を望むなら、足元を注意深く見ながら、ヨタヨタと無駄に消費しながら少しずつ進むしかないのかもしれない。

平穏なんかより、行きたい場所に速く行きたいのなら、爆発を覚悟して、地雷を踏みまくって全速力で駆け抜けるしかない。

地雷を踏むのは「愚かな」場合もあるが、「行動力がある」場合もあるのだから。

寧ろ殆どが「行動力がある」場合かもしれない。

それがない私には地雷を無視して走ることは出来ない。

余談だが、今、ちょうど気になっている本『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』ってこんな私にとって有意義なこと書いてるのかなぁ・・・とぼんやり思った。

まぁ・・・私は、地雷に構わず信念をもって自分の意見をズバッと言える人が結構好きです。いくら、私と考えが違ったとしても、そんなの関係なしで、そのような心意気が好きです。もちろんしっかりと試行錯誤した上での信念を持った人の場合ですが。

そして、そんなズバッズバッと自分の信念を言える人同士が、冷静に多角的な視点で本音で話し合ってこそ、停滞でない、機能的な世界をつくれるのかな・・・世の中をよりよくするには、敵対でなく、防御でもなく、互いにありのままの姿で歩み寄って対話する勇気がまず第一歩だ・・・と思ったのでした。


【合わせて読みたい】
www.hiekashi.com
www.hiekashi.com
www.hiekashi.com
www.hiekashi.com

【スポンサーリンク】