悩みすぎな私の子育てライフ

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創作物は「排泄物」?長新太さんの比喩に物申す!

最近、芸術芸術!・・と芸術に取り憑かれたように考えている私です。

なんだか悲しい気がしますが、しょうがないです。これが今の私ですから。

で・・・また、今日も懲りずに芸術について語りたいと思います。

何故、今日もまた芸術について書こうと思ったのかというと、ふとある絵本作家さんの言葉を思い出したからです。

皆さんは、「長新太」さんという絵本作家さんをご存知でしょうか?

子育て中の親御さんなら必ずと言っていいほど、接する機会があるであろう絵本作家さんです。

とても、独特な世界観をお持ちの作家さんでして、私は結構好きだったりします。ていうか、完全に好きです。
以下、Wikipediaでの長新太さんの説明です↓

ja.wikipedia.org


とにかく、絵本業界では無茶苦茶有名な方なのです。
で、その「長新太」さんのエッセイ本?みたいな本を、たまたま過去のある日に図書館で見かけて、パラパラっとその場で読んだのですね。

そして、あるページの文が私の脳に響いたのです。

その文の詳細はあまりよく思い出せないのですが、こんな感じだったような。

「私が創作したものは排泄物なのですよ。だから私は自分の排泄物をまじまじと眺めるようなことはしません。花火のように美しく打ち上がるならともかく。私はただ、排泄するだけです。」

みたいな内容だったような・・・。もう一度断っておきますが、「私の記憶では」って話しですから。全然違っていたらゴメンナサイ・・・。

とにかく、私は自分の創作物を「排泄物」と表現したことに「えっ?・・・えーーー!!」っと敏感に反応してしまった訳です。

そんな・・・「排泄物」ってつまり、う○ちって意味ですよね?

・・・と狼狽えてしまったのです。

でも、その反面、妙に「排泄物」って表現がすんなりと入ってくるような・・・いやいや!でも排泄物か?やっぱり何だか違うような・・・というように、相反する考えが同じ場所にいるような、なんだか、安定しないようなグラグラしたバランスの悪い椅子状態になった訳です。

何だか、妙な違和感が・・・って感じ。

長新太さんが、自分の過去の作品についてへりくだって、または自虐的に言った表現なのかどうかの真相は謎ですが、私にとっては、自分の創作物を「排泄物」と表現することがとにかく新しい見解だったのです。面白い表現だなぁ・・・と。感銘を受けたのは確かです。

でもね、やっぱり「排泄物」という表現は私にはどこかしっくりこなかった訳です。

排泄物って、要するにもう自分にとっては不要なものって事でしょ?必要なものは全て取り除かれた「カス」ってことですよね。

うーん。やっぱり、創作物を「排泄物」って表現するのは何かが違う。

でも、「排出される」って点と「排出して自分はスッキリする」という点、そして「インプット→アウトプット」を表す比喩としてはしっくりくるのですよね。

それに、生み出したら無駄に見返さないっていう点も私には納得できる!(人によるかもですが)

一見、見事な表現!・・・のようだけど、やっぱり何かが違うなぁ・・・と、また考えすぎな私はネチネチと考えた訳です。

やっぱり創作物はその人の「排泄物」というより「エッセンス的な何か」だと思うのですよね。

その人をギュギュギュッって絞って垂れた凝縮された一滴の雫のような。

私は創作物に対して「汚い」なんて思いたくなくて、寧ろ「美しく」思いたいな・・・という気持ちは根本的にあるのですよね。

だからきっと「排泄物」という表現にとてつもなく違和感を感じてしまう訳です。

長新太さんは「汚い」という事なんて表すつもりがなかったにせよ、やっぱりどうしてもそんなイメージはこびりついてしまいますから。

一方、小さい子供は自分の排泄物を自分の一部のように愛おしく思う・・・っていう感情もあるのも知っています。

でも、そのような感情を考慮に入れたとしても、私には「排泄物」という表現はやっぱりしっくりこない!

では、何がこんなにもしっくりこないのか・・・排出されて・・・不要なものでなくて、美しいもの・・・。はっ!!

と私は気付きました。

そうか!「子ども」っていう表現がものすごくスッキリする!

という結論になった訳です。

「子ども」は排出する。確かに「子ども」を産む行為は「排泄物」を出す行為に似ている部分があるし、ある意味母体にとっては不要になったから、外に産み出す。

産んだ後の子どもの世話をしっかりするかどうかは、親の性格や、生み出す形態による。

魚のように、大量に卵を産むタイプもあるだろうし、人間のように、少ない数を産んで、しっかり面倒を見たりする場合もある。

ある程度しっかり悔いがないように育てたら、後は放置っていうのもある。

育った子どもは、ものすごい偉人になる場合もあるし、ごく普通の一般的な人にだってなるし、ダメダメな感じにだってなる。

だけど、どんな子どもだって、親が愛して育てたのなら、親にとってそれは同じ価値を持った一人の人間だ。

「創作物」はそれを創った人の「子ども」という比喩は私にはとてもピッタリときた。

ショーペンハウアーさんの「思考は文字で表現した時点で成長は止まる」みたいな考えも、三木清さんの『人生論ノート』の「形成は断念だ」という理解できなかった表現も「創作物を生み出すことは子どもを産むような事」と考えたらしっくりとくる。

成長しきったから、個体から出るんだ。赤ちゃんが成長しきったら母体からでるように。外へ出る準備が整ったからでる。

母体から出た赤ちゃんは、もう母体の中で成長することはない。

後はその赤ちゃん自身が外部と関わって成長するんだ。その外部に親が強く関わっている場合もあるし、そうでない場合もある。

芸術・・・創作物は創った人の「子ども」だ。
その人の精神的な何かが、個体内で成長して、何かが形成されて、外へ出て行けるような形となった時に「創作物」という形で排出されるのだ。

たとえ出来が悪くても、見栄えが悪かったりしても、そんなの関係なく、親からしたら愛おしいし、そして美しい。

そして、それは愛情を込めて育て続けたら、いつかきっと、暫くは光を失うことのない星のようにキラキラと輝くこともあるのかもしれない。

なんて、少し夢を見過ぎな綺麗事のような解釈かもしれない。

それでも、今のところ「創作物」は「子ども」だという比喩が私にとって一番しっくりとくるのでした。

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