もしもさ、自分が自分の感じてる世界を仙人級に忠実に表現できる術を長い長い苦行の末、手に入れたとする。
だけど、だれもその凄さを評価できない。
だれも、他人の「自分が感じた事」と「自分が感じた事を表現したもの」を比べることができない。
間違え探し絵本みたいに、横に並べることができない。
もし、密かに仙人級の表現力を身につけたところで、誰もそれに気づけない。
ありのままの表現ではなく、ゴテゴテに装飾物を付け加えて、見栄えよくして「自分の感じたこと」を偽装して表現しても、その偽装を明確に判断する材料はない。
あと、いくら忠実に表現できても、元のモデルに魅力がないと、きっと需要はない。
例えば、そこら辺の石ころを仙人級の表現力で絵に表したとする。
それは果たして需要はあるのだろうか。
例えば、自分の人生を仙人級の表現力で忠実に私小説に仕上げたとする。
だけど、その人生自体が大したことのない平凡極まりない、魅力のないものだったなら、果たして需要はあるのだろうか。
「ただの石ころ」はけっして存在している意味がないって訳ではないけれど、やっぱり多くの人が惹きつけられるのは、希少な存在だ。
博物館だって、ただの石ころが展示されていても、誰も見にこない。
珍しい隕石や、鉱物じゃないと。
そこら辺にある「普通」でない、滅多にない「特異的」なものでないと、人はお金を払ってまで見たいとは思わない。
やっぱり、表現するモデルが魅力的で刺激的じゃないと、周りは寄ってこない。
だから、「魅力的なモデル」と「それを忠実に表現する技術」の2つをバランスが質の高い芸術には必要なのかも。
「魅力的なモデル」「魅力的なモデル」・・・
だから「何を表現するか」が芸術の需要には関わるのだろう。
やっぱり、人間は「役に立つこと」「実用的なもの」は必ず求める。
食べ物や、家電なんかがそれだ。
その次に求めるのが「心に刺激をあたえること」だと思う。
芸術の類いはこちらの分類に当てはまる。
芸術はそもそも最低限の生活を営む上では、なくてもいいものな訳で。
よほど心惹かれるものでないと、お金を払ってまでは求めない。
「自分の感じたこと」をいくら忠実に表現したところで、その「自分の感じたこと」がどーでもいい、心に響かないことだったら、さらに需要はない訳で。
でも、自分には、その表現したい「自分の感じたこと」が需要があるかどうかなんて、さっぱりわからないし、考えたくもない。
ただ、はっきり言えるのは、美しいと自分が感じたから、表現を試みるってこと。
・・・私は「需要」「需要」と取り憑かれているみたいに、さっきから言っているが、そもそも「需要」は芸術にそんなに必要なのだろうか。
宇多田ヒカルの「PINK BLOOD」という曲に、こんな歌詞がある
誰にも見せなくても
キレイなものはキレイ
もう知ってるから
誰にも聞かなくても
キレイなものはキレイ
もう言ってるから
この歌詞はとても好きだ。
「役に立つ立たない、需要があるかないか」だけの判断で物の価値は決まるのでい。
そんな当たり前だけど、忘れてしまいがちなことを再確認させてくれる。
ほとんど人が訪れることのない滝だって綺麗でしょ。
有名な観光名所の滝よりも綺麗な知られざる滝だって世界には沢山存在しているはずだ。
タンポポとリンゴの存在の価値に優劣をつけれるか?
リンゴは確かに実用的だけど、食べることができないタンポポだって美しいでしょ?存在している意味はあるでしょ?
リンゴ畑はお金を生み出すけれど、たんぽぽ畑は決してお金を生み出さない。
だけど、美しさはたんぽぽ畑だってきっと負けてない。
「実用性」と「美しさ」はまったく関係ないから。
誰も訪れることのない、森の中にひっそりと存在する、タンポポ畑。
誰にも見せないけど、キレイなものはキレイ。
私の「自分が感じたこと」もそんな存在だと信じてる。
そして、私は欲張りだから。表現する力を身につけて、それをみんなに見てもらいたいって思っちゃうんだ。
やっぱり、キレイなものはみんなに見せたいって考えてしまう。
タンポポじゃなくて薔薇とかの方に憧れるけど。
もうタンポポなんだからしょうがない。
色々なものが存在してこその、この世界だから。
全ての存在に、無駄なものは、何一つないと思うよ。
森を歩いていたら、たまたまたどり着いたタンポポ畑。その時少しでも誰かの心を動かすことができたら・・・心に何かいい影響を与えれたら・・・そんな文章を書けれたらいいなって思う。
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