最近、ものすごーく久しぶりに子どもと一緒にもののけ姫を観た。
やっぱり、魂のこもった作品は全然違う。
改めて、宮崎駿の凄さを見せつけられた。
こんなにも、自分の思想を極限までアニメで表現しようとした人が過去にいるだろうか。
しかも、自己表現だけでなく、エンタメとしても成り立つようになっているのは、もうある種の神業だと思う。
一体これだけの作品をつくるのに、どれだけ宮崎駿は苦しんだのだろう。
創作活動を試みたことがある人ならわかるかもしれないが、自己表現、つまり自分の思想、自分の感じていることを表現して、他人に晒すことはかなりの精神力がいる。
全力の表現をするには、どうしても自分を晒す羽目に繋がってしまう。ある意味、自分の性癖や、プライベートな考えを、人前に見せるのと引き換えに、渾身の作品を生み出すのだと思う。
悪魔の駆け引きだと思う。
いや、悪魔の契約か。
「自分を晒す」という条件があって初めて芸術の神様は微笑んで契約書にハンコを押してくれるのかもしれない。
その宮崎駿の自分を惜しむ事なく差し出した極限の覚悟が『もののけ姫』という名作を生み出したのだと思う。
『もののけ姫』こそが、きっと真の宮崎駿の思想を教えてくれる。
色々な情報が世に飛び交っているが、『もののけ姫』こそが、宮崎駿の公式情報だ。
そう、感じた。
ここからは私の解釈(Wikipediaも少し参考にしました)。
サンは、きっと宮崎駿の理想なんだろう。
もちろん容姿もそうだろうが、存在そのものが「理想」なのだろう。
人間でありながら、人間と敵対する森側の味方につく。
どう考えても歪な存在。
そしてアシタカはきっと、宮崎駿の分身みたいな存在。
宮崎駿の代理的存在。
どっちつかずで、森側と人間側で揺れ動く。
正に、人間側と自然側のどちらも愛したいが、「自分が自然を犠牲にして生きている人間である」という矛盾の狭間で苦悩する宮崎駿の姿そのものの様にみえる。
あっちへいったり、こっちへいったり。
人間の味方でいたい。だけど、森を犠牲にするのはほっとけない。
そして、どう考えても歪で矛盾する森側の存在であるサンに惹かれる。
もうダイレクトに「そなたは美しい」って言ってますものね。
アシタカは森と敵対し、森を犠牲にしながら成り立っている存在である人間側(エボシ側)と森側が共に仲良く生きる事を諦めていない。
暴走した極端な関係の歯車をなんとか鎮めたいともがくが、それも虚しく、人間サイドは神を殺すという究極の過ちをついに犯してしまう。
そして神は怒り、今まで人間が築き上げてきたものを全て取り上げてしまう。
まるで、神は未熟な幼い子どもに対する母親みたいだなだと思いました。
いくら、温かく見守ろうと神が思っていても、行動が限度を超えたら、叱って、罰を与えないといけない時もある。
そして、神は罰を与え、生き残り、残された人間にチャンスを与える。
私はこの場面をみて、旧約聖書の大洪水とノアの箱舟を思い出しました。
きっと、人間は何度も何度も調子に乗って、極端な方向に暴走して、その代償に大部分が滅び、それでも生き残った人間が未来を担う。それを繰り返している。
「生きてりゃ何とかなる。」
人間は全滅しない限り、一部が生き残っている限り何度でもやり直せる。軌道修正できる。方向転換ができる。
そして、人間中心主義の極端な暴走ではなく、人間以外との緩やかな共生を主軸にしてゆったりと歩んでいく生き方を選べばいい。
片方が、極端に利益を得る道ではなく、なだらかな全体への利益の分配。
人間の限りない欲望のあるがまま盲目的に走るのではなく、ほどほどで満足し、なるべく極端な犠牲を生み出さない道を模索してなんとか見つけだせればいい。
それが、理想論だと言われようが、望んでいる。馬鹿だと周りから言われようが。私は・・・。
「馬鹿には敵わん」
ジコ坊が最後に言った言葉。
ジコ坊は典型的な人間中心主義の人間を表しているのか・・・と書いていて気づいた。
自分の欲望に忠実な人間。
そんな人間であるジコ坊は結局最後まで生き残っている。
むしろ、そういう人間こそ、しぶとく生き残り続けるのかもしれない。
そんな人間の存在も受け入れながら、上手く共生していかないといけない。
排除ではなく共生。
そんなメッセージを勝手ながらもののけ姫から感じたのでした。
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