悩みすぎな私の子育てライフ

3人の子育て中専業主婦のチャレンジブログ。

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何かを生み出すことは進化することだと思う

ここ最近、私はブログのことを一切考えなかった。

気付いている人はいるかどうかは分からないが、「あれ?この人ブログの更新止まった?」っと感じた人がいるなら、その通り。

 

私はここ最近ブログのことを頭から消していた。

 

そしたらね、なんと笑っちゃうことに、結構幸せな日々を送れてた。

 

ただ、何気ない日常を、他の小難しいことをグルグル頭の中で考えることなく、素直に楽しんで、一つ一つの行動に集中した。

 

私は今まで、夜子供が寝てから携帯でブログの記事を書いていたのだが、その行為はかなり睡眠の質を悪くすることに気づき(今まで気づかないふりして続行してた)、ここ最近すっぱりやめてみた。

 

そしたら、なんとも、清々しき日々を送れたのですよ。

 

だけどね、私は気づいた。

 

私は文章が書きたい書きたいと思っていたのに、こんな日々を受け入れてしまったら、何にも文章を生み出せなくなってしまうことに。

 

ただ、朝起きて、朝ごはんの準備して、子どもと遊んで、家族のために食事について考えて、買い出しに行って、食事を作って、しっかり体を動かして、夜は気持ちよく子ども達と頭を空っぽにして眠る。

 

複雑なことは何も考えずに、ただ、日常を楽しむ。

 

何が悪いの?

 

全く悪くない。ただ、その生活だと何も文章を生み出せなかった。

 

「あー現状でそれなりに幸せだわ。」

 

これを受け入れたら、何にも生み出せない。

別に私の書く文章が価値があるかどうかは関係なく、ただ、「生み出せるか生み出せないか」って論点での話。

 

私が、「あー何気ない日常を過ごすだけで満たされて幸せだわー」っていうのを受け入れたら「何一つ文章を生み出せない」って話。

 

美味しくご飯を食べれるだけ。

あったかい布団でぐっすり寝れるだけ。

それだけあれば100点。

 

だからね、現状の生活で満足した時点で、文章を生み出すことは何も無くなるってわけ。

 

ハングリー精神が必要なんだね。何かを生み出すには。

 

「現状に満足するな!」

 

こんな、スパルタの声をつねに、甘ったれそうな方向に行く自分に叩きつけないといけない。

 

考えることを放棄したら、きっと楽なんだろう。

 

だけど、それを放棄したら、私の大事な何かを失う気がする。

 

だから、私はなんとか、自分を立ち止まさせることなく歩かせたい。

 

自転車も完全に止まってしまったら、次に動かすときに起動力が想像以上に必要となる。

 

もう、二度と動かす気がないなら別だけど。

 

もはや、一体何に執着してるの?・・・と他人は思うかもしれないけれど、私にとってはきっととても大事なことだと思う。文章を書き続けることは。

 

なんだろう。やっぱり文章を書く人は、どこかしら自分を苦しめるのが好きだったりする性質があったりするのかもしれない・・・苦しめる?道化師?自分を犠牲にして、何かを生み出す的な。・・・なんて思ったりした。

 

いや、まあ、個人的な見解ですけど・・・。

 

文章を書く人に限らず、表現者に言えることかも。だって、自分の頭の中を表現して晒して、他人に何かを伝えたいわけだから。ある意味自分を犠牲にしてまでも、何かを生み出そうとしているわけだから。何かを伝えたいのだから。それは、晒し者、笑い者になるのを覚悟の上での行為なのだから。

 

まったく苦痛を伴わない文章の書き方ってあるのだろうか。もしあるとしたら、きっと私の文章の書き方とは、全く異なるタイプの文章なのだろう。

 

他人に読んでもらう文章を生み出すのは、読まれる人数に関わらず、自らを曝け出しているという負担を伴う。

 

自分のありのままを晒してしまうと、そこから逃げれない。誤魔化せない。

 

だから、覚悟がいる。覚悟をして書く。自分という人間がバレる覚悟。  

 

だけど、その覚悟の分、光り輝く何かを伴うと信じてる。

 

私はラッセルの『幸福論』を繰り返してよんでいるのだけれど、その中に「芸術家は不幸なことが多い」みたいな表現があった。

 

もしかしたら、芸術家は現状に満足して幸せを受け入れたら、自分が何も生み出せなることにどこかで既に気づいていて、そうならないように無意識に直感でそうなることから避け続けているのかもしれない。だから、芸術家はもしかしたら、不幸になるのを知らず知らずのうちに選んでしまう性質をもっているのかもしれない。

 

芸術の原動力は、「自らの救済」だと思う。このままでは生きていけない自分のために生み出した世界。そういった性質が「芸術」を生み出すために必要ならば、常に芸術を生み出すためには、「苦しみの沼」に自らを浸らせとかないといけないのかもしれない。

 

実際に苦しんだ人にしかその苦しみは分からない。苦しみを救う何かを生み出すには、その苦しみを経験した人が生み出すしかない。

 

何かを救うには、「幸せ」になってしまうより、「苦しみ」を経験することの方が重要みたいだ。

 

そういう意味で芸術家は何かを生み出し続ける為に「苦しみ」を経験する方に進んでしまうのかもしれない。

 

シンデレラだって、幸せになったらストーリーは終わりだ。

 

ストーリーを続けるためには、「幸せ」というゴールに辿り着いてはいけない。

 

そんな感じだと思う。

 

「苦悩する自分が好き」

 

別に、それが他人から見て不幸でも、理解できなくても、本人がそれを受け入れて楽しく生き生きと自分らしく生きれたらそれでいいんじゃないかと思う。

 

それは、一般的に見て「不幸」でも、本人がそれを覚悟の上で譲れない何かの為に選択しているなら、決して「不幸」ではない。

 

それに、「苦しみを全てとっぱらう」=「幸せ」では決してない。「苦しみ」と「幸せ」は相関しない。

 

・・・ということは、「不幸」とか「幸せ」は他人からは測れない。相対的なものじゃなく、絶対的なものなんだ。

 

要するに、「自分が何をしたいか」をしっかり見定めることができて、周りの声なんかBGMみたいに聞き流せるようになって、決して周りに無駄に振り回されることなく、自分の足でしっかりと踏み締めて進んでいける人は強い。

 

自分のことは、決して自分しか分からない。

 

自分の進む道、自分の役割は自分で見つけるしかない。

 

そして、その道は自分の足でしか進むことができないし、その役割は自分しか担うことはできない。

 

決して自分以外の人間はできない。

 

その領域までたどり着けた人間は強い。

 

その点では、人間はみんな平等に結局は孤独だ。

 

だけど、みんな平等に孤独だから、それは「みんな」だから、決して寂しいことなんかじゃない。

 

誇り高き孤独だと思う。寂しい孤独は不安で迷っている孤独だ。進むべき道が決まっている孤独はきっと寂しさとか無縁だ。

 

「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」

 

『スッタニパータ』に繰り返し出てくる言葉。

きっと、ブッダはこのことを言ったのだと思う。

 

「何か目指すべき場所がある」

 

この想いが消えない限り、何かを生み出せる力をもっているってこと。

 

その想いは、自分が今思っている以上に価値があって、今生きている人間の「特権」なのだと思う。今生きてる人間だけの「特権」。その価値を余すことなくしっかり噛み締めないともったいない。

 

だから、心が燃えるようなやりたいことは生きているうちに思いっきりしたらいい。

 

死んでしまったら、その想いは決して持ち越せないのだから。

 

燃えている炎も、いつかは燃料が切れてしまうのだから。

 

燃えている今、やりたいと思っている今、どんどんやればいい。

 

燃料がなくなってしまってからじゃ、もうどうしようもないのだから。

 

・・・そんなことを、色々と躊躇しがちな自分に言ってやって、尻を叩きたい心境なのでした。

 

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