悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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「忘れる」のは欠陥じゃなく必要な機能だと思う

私は忘れっぽいんです。  

とても。

私はずっと忘れることはダメなこと。いけない事だと思ってた。

「忘れる」を極力無くすことが、より高みへいける立派な人間になる手段の一つだって思ってた。

「忘れる」は欠陥であって、不要だって。

だからさ、「忘れっぽい自分」は恥じるべき自分だって思ってた。

だけど、最近「忘れる」=「欠陥」というのは短絡的過ぎじゃない?って気づいた。

「忘れる」って実は無茶苦茶大事なのですよ。

例えば、極端な話、出産の痛みなんてずっと鮮明に覚えてたりしたら、もう一度出産しようなんてきっと思わない。

痛みを忘れるから次に踏み切れる。

あと、完璧主義のひとも「忘れる」機能が働かないとしんどいと思う。

全てのことを完璧になんてできるわけがない。

だから、自分の完璧にしたい分野に的を絞って、そこにエネルギーを全力投球する。そして、他は見つめないないように「忘れる」。

あとは、シビアな現実を「忘れる」。

例えば、ドキドキするピアノ発表会が1週間後に控えている。

その発表会について1週間四六時中、ずーっと考えているとノイローゼになっちゃう。

適度に頭から「忘れる」事が不可欠だ。

「忘れる」のは生きていくために必要な機能だ。

必要だからこそ、最後の最後まで残っている機能なんじゃないかな。

認知症になる老人は「現実」を見続けたら生きていけないから「忘れる」んじゃないかな。

生き続ける為に「忘れる」んじゃないかな。

忘れた方が都合がよかったんじゃないかな。

生き甲斐を失ったらボケ始めるっていうじゃない。

きっと、「生き甲斐を失った現実」を忘れたかったんじゃないかな。

生きる為に「忘れ続けた」んじゃないかな。

詭弁かな。

私だって、まだそれなりに若いけど、やっぱり現実に向き合い続けるより、忘れてしまった方が楽なときってある。

漫画とか、本、テレビって現実逃避にはうってつけなの。

無茶苦茶面白い漫画があって読んでいる間は、楽しくって、幸せで、ずっとこの世界に浸っていたいなって思う気持ち。そんなことってない?私はある。

漫画に限らず、本であったって、韓国ドラマであったって何だっていい。

きっと、誰にでもあるんじゃないかな。

その世界に没頭してる時って現実を完全に忘れてるでしょ?

そう、「忘れる」ことは大切なこと。この場合の「忘れる」って「息抜き」ってことかな。

だけどね、ずっと現実を忘れてる訳にはいかない。

「忘れている」状態から現実に戻ることは、実は結構エネルギーが必要。

若かったら、エネルギーがあるから、「現実」にほんの少しでも光があれば戻っていける。

だけど、もし高齢で、戻るべき「現実」に全く光が見出せなくて、テレビで現実を忘れた状態だとしたら・・・・。果たして、「現実を忘れた状態」から「光の見出せない現実」に戻る気力が湧くのだろうか。

私は、認知症に関して医学的知識なんてないから、偉そうな事を言える立場では全くないのだけれど・・・。

生きているのが楽しくて楽しくて、生きている時間を少しも取りこぼしたくないほど楽しかったら・・・一時的に現実を忘れる事があったとしても、必ず戻って来れると思うんだけどな。

別に楽しいとまで思わなくても現実を「大事」だと少しでも思っていれば・・・「忘れる」機能に全て身をゆだねる事はないかもしれない。

 

「忘れる」は大切な機能だ。

 

だけど、その機能だけじゃあ、万能じゃない。

適した「忘れるべきこと」を、それを「忘れる事」が必要な時にきちんと「忘れる」ように機能を高めれたらなぁ。

「忘れる」機能の精度をあげたい。

大切なことも、そうじゃないことも、一緒くたに忘れてしまっては、いいはずがない。

自分だけの都合の良い方に「忘れる」機能を利用したくない。

楽になる為だけに「忘れる」機能を発動したくない。

忘れてはいけない事は忘れないように。

忘れるべき事は忘れるように。

そうできたらいいのにな。

だけど、よく考えたら「忘れるべき事」と「忘れてはいけない事」の区別ってなんだろう。

やっぱり人間の持つ「忘れる」機能はまだまだ未熟だから。

特に私の「忘れる」機能の性能は見込めないから。

だから、私はこうやって、私なりに忘れたくないことをブログで文章にして残しているのだろう。

きっと、いつか忘却の彼方にいく思考も、もしかしたら何とか、この足跡を辿って思い出せるかもしれないからね。

頑張って書くよ。

 

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