私は、最近文章について考える。
文章で人に役に立つにはどうしたらいいのだろう。
私の文章は一体、何になるというのだろう。
私は文章を書いて何をしたいのだろう。
ただ、「好きだから書く」っていうのは、果たして 「役に立つこと」につながるのだろうか。
私の文章は一体何になっているというのだろう。
そこで、逆に考えてみる。
「私はどんな文章に救われるか」で。
そうしたら、以下の3パターンあることに気づいた。
①現実とは別のウキウキワクワクする時間を与えてくれる。
②新しい知見、または自分のモヤモヤしていた思考をスッキリ整理する方法の発見を与えてくれる。
③「共感」によって孤独感を和らげてくれる。
今のところ、この3パターンが私が文章を読む動機な気がする。
①の代表例はファンタジー系。漫画だと『ワンピース』みたいなの。あと『ハリーポッター』みたいな?フィクション。
②は代表例は新書とかかな。ノンフィクション。『バカの壁』みたいな。
③の代表例は私小説かな。私的には『人間失格』がいい例。かなり個人差がでるとこ。「この感情私だけじゃないんだ!」みたいな。救い。
今のところこの3パターンが色んな割合で組み合わさって役に立つ(?)文章ができている気がする。
こう、考えると私の文章はどういうパターンで誰かの役に立つ事が可能だろうか。
①は私が最も苦手なパターン。てか無理。この点に特化した漫画家とか小説家は本当に凄い。尊敬する。ウキウキワクワクする現実離れした夢の世界を創造することは、私には・・・出来ない(涙)
ということは、②③で文章を書くしかないのだけれど、②のパターンでは頭のいい知識人と張り合うジャンルは完璧無理なので、「独創的な解釈やものの見方」の点で書くしかないのかな。私は頭弱いけど、大人の割には柔軟性と童心はきっとあるはず(?)
③はねぇ・・・自分を曝け出すやつね。だって、周りになかなか言えないからこそ、孤独を感じることを、敢えて自ら率先して暴露しちゃうのだから。勇気と覚悟がいる。ある種の壁を突き抜けないと③は捨て身極まりない。①が望めない私は③がかなりのウエイトを占めないと魅力的な文章は絶対に生み出せない思うのです。①のノンフィクションが得意な人だって、かなり自分を曝け出さないと、絶対面白くならない。自分の好みを大爆発した結晶のようにならないと。決して他人には伝わらないでしょ。
・・・ここまで、書いていて気づいたのだけれど、やっぱり人を惹きつける文章を書くのに1番大事な点は「自分を曝け出す覚悟」ではなかろうか。多分そこが1番の真髄だと思うのですよ。
もちろん、表現力とか、その為の知識は必要なのだけど、やっぱり最終的には「自分を曝け出す覚悟」という芯がないと、その文章は何にもなれない。
薄っぺら〜く空虚になっちゃう気がする。
だからね、自己肯定感って大事だよね。自己肯定感が低い物書きってきっと生きていけないよ。
自信のない自分を他人に曝け出すなんて自殺行為だ。自己肯定感が低いのに、曝け出しちゃったら死にたくなっちゃうよ。危険危険・・・。
だから、自分を曝け出して、文章を書き続けている人は凄い猛者だよ。普通の人間の精神力では生きていけないことをやってのけてるんだよ。凄い自己肯定感をもってないと不可能だよ。その根本には自信があるんだろうな。凄い努力で勝ち得た自信が。
あー私はもっと自分に自信をつけよう。
自分が好きな自分になる。その為にはやっぱり自分を納得出来るほどの努力が欠かせないんだろうな。
そして、やっぱり①②③のどのパターンで書くにしろ、根源は「自分を救う為」だと思うのです。
「自分を救える者が、自分以外の誰かを救う、救える」
自分が現実逃避したくて書いた物語。自分がモヤモヤしている考え方を納得させる為に作り出した考え方。根本は「まず自分を救えていること」
自分が救われないと、誰かを救うことはできないよ。
なんか、よく聞くじゃない、慈善活動している人が自分がそのような活動をしている理由を「世間に恩返ししたかった」って。以前テレビのインタビューとかで聞いたことあって、「何それ」って昔の私は思ってたんだよね。
だけど、なんとなく今ならわかるよ。
救われた人にしか、同じように救えない。
だからね、無差別事件をおこしちゃうような人はね・・・きっと、その逆だったんだろうね。
文章で人を救うには文章で自分が救われたことがないと。
それは、意図することでなく、その人がもつ性質と運命だと思うんだよね。
救われて初めて愛する事ができるんじゃないかな。
自分が何で救われたか・・・が・・・自分の役割の指針になる気がする。
文章で自分が救われるなら、きっと文章で誰かを救う事ができると信じてる。