悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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「無知の知」を自覚し続けるのは辛くても歩き続けたい

ソクラテスの「無知の知」ってあるじゃない。

 

ごめんなさい、、いきなり。最近哲学の本を読んでいて思考が「哲学脳」になっている。

 

それでさ、何とまぁー・・・本を読むたびに私は何て知らないことだらけなんだってひるむ訳。

 

ネットサーフィンしてると、たまたまホリエモンの記事が目にとまって、「先を見るな、目の前のできることをしろ」みたいな文章があったの。

 

先を見たら今やっていることのやる気が無くなるってさ。

 

私もね、そう思うよ。「千里の道も一歩から」って言葉あるじゃない。遠くを見てはいけない。足元の一歩一歩に集中しろってね。

でもさぁ・・・、なんていうかなぁ・・・、本を読むたびに、もう途方もない気分になるの。

私が、あれこれ頭で必死に考えていることは、もう過去に考え尽くされていて、完成度も密度も濃いぶっ厚い本にまとめられててさ、私は今、その1ページにも満たない箇所をただ不器用に辿っていっているだけなんじゃないかって。

 

それでも、その行動に意味があるって信じたいよ、私は。過去にこんな記事を書いてるぐらいだからね↓

 

www.hiekashi.com

 

でもさぁ、なんだかね・・・やっぱり虚無感が湧き上がる時があるのよ。

 

知らなきゃいけないことが山程あるの。

さばかないといけない、洗濯物の山が富士山ぐらいある感じ。

 

しかもさぁ、私は手洗いなの。

 

他の人が、凄い特大洗濯機を使ってその洗濯物をさばいている間さ、私は手洗いのようなノロノロな気がする。

 

だって、読んでも、読んでも文字が全く頭に入ってこない。ざるから砂がこぼれ落ちるように、サラサラと虚しく落ちていく。

 

昔からそうだった。すぐに忘れ去っていく。

知りたい気持ちはあるのに、性能が全く追いつかない。

 

そのざるの網目に引っかかったわずかな塊を何とか、自分に同化することに必死だ。

 

もうさ、きっと消化不良なんだろうね。いくら食べたくても、体が受け付けない。消化できない。

 

もうね・・・きっと、何でも食べれないんだ。脂っこい物を大量には胃が受け付けれないみたいにさ。食べたくても食べれない。だから、自分の身体に合った物を少量ずつしか食べれない。

 

無理して暴飲暴食に走ったら、さらに胃が悪くなる原因になり、悪循環。

 

食べれる物を適度に。それを毎日続けていくしかない。

 

あーあ、何でもっと、私はいい洗濯機をもってなかったんだろう。そしたら、少しは絶望を感じなくて済んだのに、、、

 

でもさ、しょうがない。私はいい洗濯機は持ってない。諦めるしかない。そのかわり、きっと手洗いは手洗いで、何かいいことがあるはず。

 

洗濯機より、気持ちを込めれる。洗濯物に対して。その事に意味があるかどうかはさておき。

 

でもさぁ、きっと、こんな事を考えているのは私だけじゃないって。

 

だって、凄い量の洗濯物の量だよ。

つまり知らないことが多すぎるってことね。

こんなの洗ってるだけで人生が終わる。

 

私はね、自分でいうのも何だけど、目の前の洗濯物の量に気付いてるだけ、マシな方だと思うの。だって、きっと洗濯物の山が見えてない人も沢山いると思う。あと、見ないふりをしている人もね。

 

山の様な洗濯物を放置してる人が大半。

 

だからね、きっと人間は同じことを繰り返してるんだって。

 

同じ過ちを繰り返したり、同じ様な悩みで苦しんだりさ。  

 

だって、いくら自分の求めている悩みの完璧な答えが、そこら辺・・・例えば、近所の図書館の本棚の一冊にまとめられてるとしてもさ、読む時間と読む気力をそこに注げなかったら何にもならない。

 

いくら名著って呼ばれている本だってさ、その本を理解するために人生の大半を費やしてしまっては、どうしようもない。

 

「あーこういうことだったのか!」ってわかった瞬間が、もう何も行動できない死の間際だったらどうしようもないじゃないか。

 

だからね、大体の人間は、山の様な洗濯物を放置せざるを得ない。

で、ほんの一部の環境に恵まれた人間の突然変異みたいな超人だけが、人生の半分ぐらいで「今まで人類が辿り着けた世界の仕組み」をある程度理解してさ、残りの人生の半分をかけて、やっとちょこっと新しい領域に進出できる。

 

じゃあ、それ以外の一般人、日常生活を生きる為に必死な人たちは、その時、一体何が出来るんだろうなって。その超人を邪魔することなく、そっと陰から支えることが最大限に出来ることじゃないかなって。その為に・・・「その人がすごいことをやっている」ってことを理解する為に・・・洞察力をつける為に、少しずつでも学ぶべきなのかもしれない。

 

間違っても、石なんか投げちゃダメだよね。

 

過去の偉大な人たちってさ、大体酷い目にあってるよね。なんだろね、あれ。で、大体時間差で、「この人すげーこと言ってたんじゃん」って世間に認められ始める。きっと先見の明がありすぎて、その時は他の人には理解不能なんだろうね。あと、やっぱり新しいことをするには、今の常識をある程度壊すことが必要だから、その常識を大切にして生きてきた人々の反発に合うのは必然なのかもしれない。

 

・・・なんだか、少しネガティブな内容になってしまった。

 

こんな「あーこんな量の洗濯物無理だよー」っていうネガティブ感情、嫌だなって思う。

ネガネガ言う暇があったら、洗濯物を一つでもさばく強さが欲しい。

 

だけどね、私はネガティブな感情に支配されて、うずくまって立ち止まってしまう弱さはあるけれど、また立ち上がって歩き始めれる。きっと何度でも何度でも立ち上がれる強さは持っていると信じてる。

 

何度も何度も立ち上がって、少しずつでも、世界を知っていきたいと思う。それはね、「暗記したことがスラスラ言える」とは違った理解の仕方でもいいと思う。

 

もう大人になった私には、暗記力を試される、簡易的な振り分けのための「テスト」はもうないのだから。縛られずに学ぶ自由をやっと得たのだから。

 

私のやり方で、世界の真理のさまざまな景色が見えるようになりたい。きっとそれは、机上の学びだけじゃない経験も反映されるはずだ。

 

それで、私なりの手段で、悩んでたり、苦しんでる人にそんな景色を見せれて、少しでも清々しい気持ちになってもらえたら素敵だなって思う。ちょっと自惚れすぎた夢かもしれないけれど。

私の一つの夢です。

 

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