悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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強烈に何かに救われないと強烈に何かを救えない

強烈に何かに救われないと、強烈に何かを救うことができない気がする。

 

人って、やっぱり自分が経験したことじゃないと、人に経験させてあげれない存在なのかなって。

 

子供の頃、周りからたくさん愛情を与えられた経験があるからこそ、大人になってすんなり子供に愛情を与える側に回れる。

 

だからね、「あー私は何も救えないわぁ」って思う人は、「自分が救われる何か」がなかったのだと思う。

 

ただ、それだけの話だと思う。

 

「こうなりたい!」って強く思うだけじゃあ、どうにもならないことは沢山ある。

 

そもそも、きっと強烈に救われなければならない環境がなかったんだよね。

 

ある意味へいたんだったのね。平和だったんだよね。

 

だから、凄く人を救ってる人って、逆に凄い苦悩から何かに救われたんじゃないかな。要するに、平和じゃなかったの。

 

だからね、「この人すごいことするなぁ」っていう人は凄い過酷な環境で何かに救われたからこそ、生みだせた「何か」なんだろうね。

 

何だか抽象的な説明過ぎて、うまく伝えられてないかもしれないけれど・・・。

 

例えば、戦争があった時代に生きて、その地獄を知っている人以上の「戦争の地獄」の表現なんて戦争を知らない人には無理だ。

 

戦争を経験して知っている人が1番戦争について知ってる。

 

いくら戦争を知らない私が、戦争の悲惨さを表現しようとしても、それは虚しく何にもなれずにたたずむだけだ。本当に戦争の地獄を経験した人の心の叫び、真の声と肩を並べることは決してできないだろう。

 

だから、「強烈に何かを救えない」っていうのは、ただ、「強烈に何かに救われる機会がなかった」ってだけなのだろう。

 

だから、「何かを救おう」・・・なんて気持ちだけを悪戯に大きくもとうとすると、バックグラウンドにその気持ちに値するほどの「救われた経験」がなかったら空回りする。

 

もっていない経験からくる気持ちは、決してもっていることにできない。想像はできるかもしれないが、もっていることにはできない。

 

「何かを救えるアニメのヒーロー」だって、大体過去に強烈に過酷なことがあって、そこから何かに救われているじゃないか。

 

救うことに力を注げる原因となる何かが過去にあったからこそ、心をあんなにも燃やせるのだろう。

 

特に「強烈な救い」が必要でないような、過酷でない状況でぬるぬると育っているならば、「救えるヒーロー」にはなれない。

 

でもさ、別に強烈に救うことだけが「救う」じゃないからね。

 

その人なりに受けた「救い」の大きさで、他の人に「救い」を与えることが、その人が最大にできる他人への「救い」だ。

 

別に「救い」を与えた大きさで、その人の偉い偉くないが決まるんじゃない。

 

そういうものってだけ。

 

誰かに何か手土産をもらったら、同じ価格ぐらいの土産を渡すようになってるって感じ。

 

きっと世界はそんな感じで、作用反作用の法則みたいな何らかの原理に基づいて、流れていっているんだろうな。

 

押した分だけ押され返される。

 

押された分だけ押し返す。

 

その原理は、自分が気づかないだけで、きっと自分の知らないところでもきちんと働いてるんだろうな。

 

世界はきっと、バランスを保つ方向に流れていっている。

 

ゆるゆるとした日常で、ゆるゆると救いも何もいらないような環境だと、何も救えない。

 

それは、ある意味何もおこらなくて、退屈で、でもそれが平和で、きっと何も起こらないのは、それはそれで静止に向かうので、それはそれで苦痛で・・・そして何らかの刺激を求める方向に行くように、人間はなってるんだろうな。

 

そうでなきゃ、寝床も、食べ物も不足ない今の時代で、何も起こらない家にじっとしていることが苦痛でたまらないなんて・・・その事の説明ができないじゃないか。

 

アインシュタインがいった

「人生とは自転車のようなものだ。倒れないようにするには走り続けないといけない」

っていう表現が言い得て妙だ。

 

バランスをとりながら走り続けないといけない。

 

ただ、今までぬるぬると凪のような海で生きていて・・・急に大きな波が押し寄せるようになったら、果たしてぬるぬる生きている人は対応できるのだろうか。

 

ぬるぬる生きている人には、ぬるぬる生きている人なりに、心のどこかに、そんな一抹の不安を忍ばせながら・・・だけど、なるべくそれを見ないようにして生き続けるしかない苦悩があるのかもしれない。

 

自転車で平坦な道ばかりを走ることに慣れてしまった人は、急な勾配の連続が続く道を走らなければならなくなった時、果たして対応できるのだろうか。

 

きっと、その時はその時で、ひどく苦しむことになるのだろう。それは仕方がない。それが「平和に慣れる」ってことなのだから。

 

だから、心配性の人は、その急に来るかもしれない過酷な状況に対応できるように、自分をあえて過酷な状況におくように日頃からしているのかもしれない。

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