悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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私の理想とする「自由な表現」とは。

私は昔から、「自由」に執着している側面がある。

 

 

www.hiekashi.com

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・・・ということは、きっと私は私の望む自由をもっていないのだろう。

 

そして、私は「自由に書きたい」「自由に表現したい」とも強く思っている。

 

「自由な表現」とは、誰にも気を遣わずに、自分の好きなように書く、描くってことだ。

 

他人の反応に影響されずに、自分の書きたいことを書くってことだ。

 

誰にも気を遣わないということは、ある意味身勝手なことだ。

 

自由は決して他人に優しくない。自由な表現は周りに優しくない。周りに合わせないのだから。忖度しないのだから。

 

正直、「完全な自由」なんてあり得ないと思う。

それはもし存在するのなら、きっと「無に帰する」状態だ。バラバラになってしまう恐怖の自由だ。離散だ。

 

決して、それは思い描く明るい「自由」ではない。その自由はきっと「自由な表現」の「自由」とは異なる。

 

上で紹介した二つの記事内でも書いているように、完全な自由は破滅につながってしまうのだ。

 

「自由な表現」の「自由」に必要なのは、枠をどのように定めるかだ。

 

そして、その枠の中で、自分の秩序を作って、自分の思い通りに動けるようにすることだ。

 

秩序が整って、初めて、枠を少しずつ少しずつ広げることができる。

 

「自由な表現」の鍵は秩序だ。

 

自分のマイルールが定って初めて、他人に惑わされずに、周りに縛られずに自分のやりたいように動き回れる。

 

他人のルールに従わずに、他人のルールから自由になれる。

 

自由な表現の自由とは・・・実はガチゴチに自分の秩序を組み立てることで手に入れることができるのだ。

 

漫画で自分の思い描く世界を自由自在に表現するには、自分の絵のタッチや、表情の描き方、言葉の選び方等を一つ一つ確立していかないといけない。

 

自分の〇〇を確立していかないと。

 

自ら秩序を作ってこそ、自由な表現が可能となる。

 

周りから自由になるには、秩序を自らが創造した自分の世界をつくるしかない。

 

「自由な表現」ってそういうことだと思う。

 

無心で、適当にキャンバスに適当な絵の具を、適当な筆で塗りたくることが自由な表現なんかじゃない。

 

自分の中で秩序が確立した上で描いた絵が「自由な表現」なんだ。それこそが私の求める「自由な表現」なんだ。

 

水の描き方、光の描き方、生物の描き方、静物の描き方、色の配合等が確立してこそ、自分の思い描く世界を表現できる。

 

「自由な表現」の自由とは・・・周りからの「束縛からの解放」のことだった。自分自身が宇宙に放り出されるような自由じゃなかった。今まで息苦しかった世界から脱出して、自分が創った居心地の良い世界へ行くことだった。自分で秩序を作った世界を創造することだった。

 

「水を得た魚のよう」の最高の水を自分で創造することだった。

 

もう、その世界では訳の分からないルールに縛られる必要はない。

 

他人の言いなりにならなくていい。

 

何故なら、自分の作った世界だから。

自分が秩序をつくった世界では、他人に従うことはない。周りに合わせる必要がない。

 

そういった意味の「自由」だと思う。

 

自分の世界が完成したら、きっと周りの視線や反応なんて気にならなくなる。独立して生きていける世界ができたら、依存は必要ないから。その世界に見放されても生きていける居場所があるのだから。でも、それがみんなにとっていいことかどうかは・・・判断しかねる。

 

だからね、「自由な表現」に憧れる私という人間は、ただ・・・、周りに合わせるのが嫌いな、我が道を行きたがる、ある意味、我が儘な協調性のない性格で、他人が創り出したものを受け入れるよりは自分で何かを生み出したい・・・という欲があるということなのだろう。

 

それが強欲だとしても、やっぱり「自由な表現」に憧れる。

 

私の憧れの・・・まだまだ手が届きそうにない「自由な表現」。

 

コツコツと地道に一つ一つ私の理想とする世界の秩序を確立していくしかないのだろう。

 

まだまだ、はるか遠い理想郷を目指して。トボトボ歩くしかないのだろうなぁ。行き倒れにならないように。

 

でも・・・目標がある限り、創造はできるから。

目標を見失わない限り創造はできるから。

 

逃げずにその目標を見つめ続ける勇気と根性と環境と肉体が私に施されていることを切に願う。

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