人生の、強く光り輝く目標をみつけれれば、それで充分だ。
ずっと、自分で強く光り輝かせれる目標に気づいたら。
強い確信を持っていつまでも信じれる、目指せれる目標があったら、それだけで、もう人生は定まったようなものだ。
そんな目標は、きっと「見つける」っていう表現は正確ではないかも知れない。
「見つける」というより、「やっと見えた」「やっと会えた」という方が正確かもしれない。
そんな目標は偶然みつけたように本人は思えるかもしれないけれど、それは迷いながら探し求めることによって、自らが高い位置に来て、やっと見えて輪郭をとらえれるようになった・・・ということなのかもしれない。
いくら自分の心に響くであろう本が近くに転がっていたとしても、文字が読めなかったら何にもならない。
文字が読めるように自分がなって初めて、その本は自分の心に響かせることが出来る。
きっと・・・そんな感じだ。偶然見つけたのではなく、自分が見えるようになるまで成熟したってことなんだ。
色々な経験という文字を読んでいくうちに、やっと読めるようになってきた、理解できるようになってきた手元にあった自分という本。
自分という存在をある程度理解できて初めて、自分の目標が見えてくる。設定できる。
自分の今の位置がわかって初めて、行きたい場所の方向がわかる。ただの「願望」から抜け出せる。
実際に具体的に行動に移せる。
自分という難解な本はきっと完璧に理解することは不可能だろう。過去の哲学者はきっとその難事に果敢に挑んできた。
そして、きっとそんな本は実は初めから完成体として存在していたのではなく、理解しようともがく事自体が本を創造していた。
宮沢賢治の死に際に、彼が自分の作品を「迷いの跡」と表現したという話がある。
きっと、それは自分の創り出した作品を卑下して投げやりにそんな風に表現したわけでなく、宮沢賢治の中では「迷いの跡」という表現は限りなく「真実」だったと私は推察する。
その「迷いの跡」が「宮沢賢治」という存在を表している。
真実という光を目指して迷いながら歩く。
その行動自体が創造だと。
普通の人は、もっと近くに目標を見出す。
だけど、宮沢賢治は普通の人よりはるかはるか遠くの目標の輪郭を捉えて歩き出してしまった。
そこに向かって・・・誰も滅多に歩こうとしない旅路を、宮沢賢治が彼なりに力強く歩いた道のりが、彼の創造した稀有な独特に輝く作品達なのだろう。
目標は輪郭をしっかりと見定める程、輝かせることができるから。
輝けば、輝くほど、見失う事なく、生きている限り進んでいけるから。
オロオロとうろたえることがあっても、進むべき方向はわかるから。
輝きが弱くなっても、また炎を何度も奮い立たせることのできる・・・目標を持ち続ける強さ。
その強さは、その目標の魅力を自分がどれだけ理解し、魅了されるかにかかっている。恋焦がれるような強い想い。
遠く遠くに目標を据えるなら、より強く、光が消えないように輝かせないと。
近くの光によって見失わないように。
その目標に心を惹かれている限り、光は失われないから。
光を失った時が、創造の終焉だと思ってる。