「本当の自分を隠して生きる」
これはみんながやってること。
いくらトイレに行きたくても、その事実をその場で、声や、仕草に出してわめいたりする社会人の大人なんていない。
ま、極端に簡単にいうと、そんな感じ。
本心は隠すのが普通だし、マナーって訳だ。本心を隠さないことは、周りをきっと不快にするから。
「本当の自分」は隠さないと生きていけない。
卑怯なことじゃない。
後ろめたいことじゃない。
気配りだ。
周りのために気をつかうのは優しさだ。
「本当の自分」をリミッター皆無で常日頃曝け出したら・・・もうそれは獣のようなものだ。
上手に人間生活を送るには、常日頃「本当の自分」を隠さないといけない。でも、それだと「本当の自分」の居場所がなくなる。
「本当の自分」は、隠さなくても、自然と現れることなんてない。それは、許されないことだから。自然に現れるのを許さない仕組みになっているから。自然に現れたら、社会から追い出されてしまう世界が人間社会。要するに「本当の自分」を制御する術を身につけれない人は、捕まったり、人から相手にされなくなったり、病院や施設に入れられるってわけ。
子どもだって、本心を隠したり、折り合いをつけたり、見ないようにしたりして周りに合わせることを学校で学んでいっているじゃないか。
だからね、みーーんな、「本当の自分」を上手く隠して生きている。それか、「本当の自分」をみないふりをして生きてる。
でも、そのままだと、「本当の自分」はずっと隠れたままで存在できなくなる。なおざりにされる。
だから「本当の自分」を何とか形にしようと試みる。
自分という肉体から離れた場所で。
「本当の自分」を存在させるために、創作活動を人間はするんじゃないかな。本当の自分の居場所をつくってやるために。
恋人の前で本当の自分を曝け出して、本当の自分の存在を実感したい・・・みたいにさ。
一人の恋人だけじゃ飽き足らず、本当の自分をどこまでも拡大したい・・・っていう欲望が、創作者の心の底には渦巻いているんだと。
「本当の自分」の理解者を沢山沢山拡大して、「本当の自分」の存在をどんどん拡大させたいっていう欲望。
自己顕示欲の爆発。
「芸術は爆発だ」っていう表現もうなずける。
「本当の自分」を表現せずにはいられない時というのは、「本当の自分」をこの世に存在させることなく、消えてしまうという危機に陥ったり、その危機をリアルに感じた時だ。
「本当の自分」は、誰だって最初は自覚してないし、出たくても出る穴がなくてくすぶっている。その結果、「本当の自分」を自分の中でうまく制御することばかりに労力をつかってしまう。
でも、いつだって本当は出たがっている。狭い狭い、個人という閉鎖空間から。
でもどうやって、どこにどう出せばいいのかが分からない。そうどこかでわだかまりを感じながら生き続けるしか仕方がなかった。だけど、「本当の自分」の居場所が自分の中で完全に失われつつある時。本当の自分を解放しないと自分の秩序を保てなくなった時。「本当の自分」は生き続けるために、穴を開けて自分から外へ流れ出す。「制御」のみだった状態から、外への「解放」への一歩。
そういう危機、今まで見ないふりしたり、ないがしろにしていた「本当の自分」の存在を見つめざるを得なくなった時。そんな危機に陥って初めて「本当の自分」の存在の尊さを自覚するのだろう。
「本当の自分」を出してあげて、この世界に存在させてあげなきゃ・・・って強く望むのだろう。
そしてやっと「本当の自分」と真剣に向き合って本当の自分の人生を歩き始める事ができる。
今まで制御することしか出来なかった自分という枠の中の暴れ馬。その馬を遂に手懐けて、更には、またがって自由に外の世界を走り回れる・・・。それはきっと、帰依すべき超越的な存在を馬が見つけた時だ。きっとそういう状態の人を「人生を謳歌している」っていうのだろう。
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・・・というのをカール・ヤスパースの「限界状況」という哲学用語を知って、頭の中で思い浮かんだって話。