悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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苦しい時に書いた文章は人を救うこともあるよ。

苦しい時に書いた文章は人を救う・・・こともあると思う。

 

「苦しい時に書いた文章=人を救う」という等式は成り立たないのだけれど。

 

人を救うことの十分条件にはなると思う。

 

苦しんでいる最中の心の慟哭を自分から雑巾を絞るようにして、垂れた水滴・・・そのようにして書かれた文章は同じように苦しんでいる人の喉を潤す事もある。

 

たった1人で砂漠を歩いている人の命の綱のような水滴になることもきっとある。

 

その水は、自らを犠牲にして、誰かのために絞りだした水だ。

 

その水を必要とする人の為に、自らを雑巾のように絞り、「何この濁った水?」って多くの周りの人間から笑われることも覚悟して搾り取った水だ。

 

誰に頼まれたわけでもないのに。

 

その水の価値はわかる人にしか分からない。

 

その水の有難さは、同じ苦しみの中にいる人にしかわからない。

 

どこかに居る、1人ぼっちで砂漠を歩いている人に人知れず届くことのできる唯一の水だ。

 

けっして、恵まれた都会に住んでいる人には価値がわからない。

 

1人ぼっちの孤独な砂漠の夜に見つけた、澄んだ水色に光り輝くオアシスのような水だ。

 

その美しさや価値は、わかる人にはわかる。

 

し・・・分からない人には決して分かることはないのだろう。

 

私は遠い昔、太宰治の『人間失格』がそのような、砂漠の暗闇に光る澄んだ美しい水に見えたことを思い出した。

 

そして、今では「そんな水今は見たくもない」って心から思う自分がいる。

 

そして、知り合いが「『人間失格』を読んでみたけど、読んで何も得るものがなかった。嫌な気分になっただけだった」というのを聞いた時、なんとも言えない悲しい気分になったのも思い出した。その人の気持ちを理解できない自分がそこにはいたし、理解できる自分も今いる。

 

全部きっと正解だ。全部同じ「水」の姿なのだろう。

 

ある人には毒になったり、ある人には薬になったり、ある人には、ただの水だったり・・・

 

人によって姿を変えるのだろう。

 

だけどね、その水がどのように「今の自分」に作用するかに関係なくさ、

「苦しみの中、自らを搾り取るようにして書いた文章」というものは、私はその片鱗を少しでも感じ取っただけで、「愛しさ」を勝手に感じるのです。

 

私は、その勇気ある、ある種の自己犠牲的な行為を決して馬鹿になんて出来ない。寧ろ心から畏敬の念をいだき、平伏したい気分にすらなる。

 

私にはそんな勇気のあること到底できないから。

 

そんな、はたからみると、汚れたように見える・・・十字架にかけられたイエスのような文章が私は好きなのです。

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