悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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私の「愛」についての今の解釈

「愛」の流れは「向き合うもの」と「同じ方向を向くもの」の二つの種類のものがあると思う。
「向き合うもの」は満たし合う。「同じ方向を向くもの」はともに進むことだ。

向き合う愛は閉鎖的だ。

大体が二人で完結する。

わかりやすい例が、お母さんと赤ちゃんの愛。

向き合って、お母さんが赤ちゃんに与える。そして赤ちゃんは天使のような笑顔を返す。

恋人同士も向き合った愛の流れだ。

この愛の流れは悲しいことに、閉鎖的だから限りがある。

どっちも満たされればそれ以上はない。

愛はエネルギーだから、どちらも満たされたなら、行き場をなくしたエネルギーは次なるゆく場所を求める。

その次の段階の愛の流れがもう一つの愛の流れだ。

もう一つの愛「同じ方向を目指す愛」

親子でいうと、赤ちゃんが幼児になると、一緒に砂場遊びをしたりする。一緒にお絵描きをする。一緒におままごとをする。

一緒に同じ方向を向くことだ。

一緒に美味しいものを食べる。

一緒に楽しいアニメの話をする。

さらに、子供は成長すると同じ方向を親でない誰かと向き、そして向かうようになる。

そうなればもう親から自立したのも同然だ。

恋人でいうなら、夫婦になって二人が目指す同じ未来に向かって歩む事かもしれない。
 
だから、同じ方向を向くというのはとても大きなエネルギーの流れにもなる。

同じ方向を向く愛の流れの根幹はなにか?

それは共感、共鳴だと思う。

より広範囲な共感は大きな力を生み出す。

単純に人数が多くなるから。

エネルギーは同じ方向に向かう人数が多いほど大きいものとなる。

芸術作品は、その共感を時代を超えて媒介するものだと思う。

即ち愛を媒介するものだ。

より優れた芸術作品はより普遍的にその愛を媒介することが出来る。

そして、大きなエネルギーの流れを作ることができる。

広範囲な共感。

それこそが、何か大きな事を成し遂げるキーワードな気がする。

共感に必要なことは、リアルな経験しかない。本当の意味で実体験ほどいい学びはない。そしてタイムリーな事だとも思う。

いくら戦争の悲惨さについて共感したくても、実際に経験した人以上に共感することは出来ない。

戦争に対する憎しみや怒りは、当事者ほど強く持つことはできない。

その気持ちに共感できる同志が多い時にその気持ちに対する動きは大きくなる。

そして、その思いを表現する手段が必要だ。

手段が難しい。政治活動やデモ活動みたいなのが、ド直球な手段の様に思う。

そんな「今」に焦点に当てる手段ではなく、時代を超えて、思い、すなわち「愛」を媒介できるものが「芸術」だと思う。

しかし例え、素晴らしい手段で素晴らしい芸術作品をつくったとしても、誰にも見つけられないこともある。

本人が亡くなったあとで、その作品の価値が認められる例なんて山ほどある。

だけど、真に素晴らしいものは、誰かが見つけだすものだと、私は信じたい。

不安な人はエネルギーの強い流れのところを目指せばいい。

みんなの想いが同じ方向を向いている強い場所。

そんな場所を見つけていけばいい。

向かうべき場所が定まっている人は強い。

何故なら力が分散しないから。

宗教は愛のエネルギーを同じ方向に向ける仕組みだ。

同じ思想の元、みんな同じ方向を向いている。

だから科学も一つの宗教だと聞いたことがあるが、そういうことかもしれない。

大人数が同じ方向を向くための思想の仕組みが宗教なら、科学もその一つだ。

大きな流れの一部になりたい。

大きな川の一部になりたい。

小さい川なんて、弱々しくて不安定だ。

だけど大きい川なら、安定している。

枯れる事はない。

無駄死にすることはない。

だから安心したい人はみんな大きな川へ行く。安定したいから。

だけど、エネルギーの流れは変化する。

台風みたいに。

いくら大きくなってもエネルギーを発散してしまえば、なくなってしまう。

エネルギーは高い場所から低い場所へ流れる。

今のるべき流れは大きくてもすぐに消えるような台風じゃない。

これから大きくなっていくような流れだ。

時代を読めなければ、その流れにはのれない。

俯瞰的に物事を正確に捉えれる事が、なによりも大事なのかもしれない。


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