自分と違う考えの人=自分を否定する人
って考え方って、油断しているとなりがち。
私は昔よくなってた。
「あ、この人自分の考えを理解してくれないわ」って思ったら、「自分とは合わない」ってそこで線を引いてた。切り捨ててた。
そんな昔の自分はすごく愚かだったなぁって今は思う。
昔の自分は本当に自分中心のものの見方ばかりしていたなぁ…と。
例えば、私が宇宙にすごく興味があったら、みんな宇宙にすごく興味を持つべきだと思ってた。
それは違うだろって。
私が価値があると思っているものは、私以外の人間にとっても同じぐらい価値があるのが当然だと思ってた。
別にみんながみんな宇宙にそこまで興味なくったっていいんですよ。
宇宙じゃなくてファッションにすごく興味があってもいいんですよ。
宇宙じゃなくて、日々の食事についてすごく興味があったっていいんですよ。
自分と他人の価値観が違うことは、当たり前のことなのに、それを、「自分の考えの価値の重さ」と直ぐに結びつけていた。
「違うこと」と「価値の重さ」を結びつけるのは間違っている。
他人と考えが違うからってすぐに、「自分が馬鹿にされた」とか、「自分は間違っていると言われた」とか、「つっぱねられた」という被害者意識の方向につっぱしってはいけない。
また、違うから「あいつは馬鹿だ」とか「間違ってる」とかいう相手を卑下する方向も同じことだ。
「違う」と気づくやいなや、そういう極端な方向にすぐに行ってしまうと、いつまでたっても共存できない。
原子がそれぞれ違う性質をもっているように、それぞれの人間が違う価値観なのは当たり前であって、だからこそ、それぞれなれるものや、役割が違う。
「違うのが当たり前」
まずは、そこを頭でしっかり理解しないといけない。
その「違うのが当たり前」を認めた上で、その違う相手とどういう関係でいたいか…を冷静に考えないといけない。
「自分と価値観が違うからこの人だめだわ〜」じゃなくてさ、「あー、こういう価値観の人なんだね…ふむふむ」って感じで、「価値観の違い」と「価値の優劣」は結びつけないようにしないといけない。
この二つを結びつけてしまうと、本質がうまく見えなくなる。見る目を曇らせる。
曇って色々な事が見えなくなってしまう。
そして、自分のことしか見えなくなる。
別に自分が興味があることを、一番の親友が興味がないことってダメなことじゃないんですよ。
だけど、興味がないからってその価値の優劣をどうこういっちゃあダメだ。
自分が興味ないからって「そんなくだらないものなんで好きなの?」なんて言ってはだめだ。
それは、興味のあるなしを、それの価値の優劣と結びつけたことになるから。
それをやっちゃうと、相手を遠くに突き放してしまう。
適した距離感で共存したいなら、突き放す行為はよくない。
だから、自分と違うからって「あいつはだめだ」「こいつは関わらない方がいい」なんて、すべて突っぱねてると、一人になっちゃう。
そのくせ、寂しい、寂しいって苦しんで困って相手を求めていたら、それは間違った行為だ。
自分の為でない行為は、「善」じゃない。
だから…自分が一人にならない為にも、自分と価値観が違うことを、自分や相手を卑下したり、優位に立つ材料にしちゃだめだ。
相手のありのままを見て、相手のありのままをみとめる。
「違い」の存在を「否定」するのではなく、「肯定」する。
そのスタンスが「共存」を続けるためには必要不可欠な土台だと思う。
そうしてはじめてその相手と「今後どういう関係を築いていくか」っていう話し合いが建設的にできる。
そのスタンスができない限り、長期間の共存への道は閉ざされたままだろう。
頑なに、違いの存在を否定しながら、それでも共存せねばならない状態はひどくエネルギーをつかう。いやでも共存しないといけない状況なら、そうしたエネルギーを無駄に垂れ流すはめになる態度は正すべきだと。
エネルギー不足が深刻になる前に…と思います。
「違いの存在を否定すること」は「違いについて知ること」に逆行する。
この事を自分の為にも心に留めておこう。
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