私の家の近くに一本のヤマモモの木がある。
今は秋だけど、 ふとヤマモモの木に実がたわわになる状況を思い出した。
あれは、6月下旬だっけな。
ヤマモモの木に沢山実がなって、 ちょっと摘んで食べるような赤色になってくる。
私は、いつも、 その実でジャムでも作りたいなぁなんて思いながらその木の下の道 を通り過ぎる。
そして、しばらくすると、道を覆い尽くすほど実が落ちる。
そして、いろいろな人が踏んでぐちゃぐちゃになる。
そして、気づいたら、 木に食べれるような実は一つもなくなっている。
そして、 実が踏み潰されてベチャベチャになって歩くのもためらわれた道も 、気づいたら、普段通りになってる。
あーまた今年もジャム作らずに終わったな・・・ってなる。
私はそんな一連の流れを頭の中で回想した。
そうだ、あんなにあの時期実ってた実も、今は一つもない。
腐るほどあったあの実は今では一粒だって手に入らないんだ。
人間の創造性や、想像力なんかも同じようなものかも・・・ ってふと思ったのだ。
人間の精神活動とたわわなヤマモモに、 目には見えない根底に流れる共通性をふわっと感じとれた気がした 。
アイディアが浮かぶときは有り余るほどバンバン浮かんでくる。
バンバン浮かんでどうしようもなくなる。
そして、どんどんたわわに実ったヤマモモの様に、 熟して落ちていく。
それは、何にもなることなく、ただ、 ぐちゃぐちゃになって土に還っていく。
こんなにも今目の前に沢山実があるんだ。
ジャムにだっていくらでもできる。
そして、ジャムにしようジャムにしよう・・・ と思っているだけで、時間は過ぎ去り、気づいた時には、 木には一つも実はなくなり、残ったのは、 地面に落ちたベチャベチャのどうしようもない無残な実の残骸しか なくなる。
そして、夢のように、実はすべて消え去ってしまうんだ。
「いつかしようしよう」と思っているだけじゃ・・・だめだ。
沢山生き生きとしたみずみずしい実が目の前にあるうちに、 どんどん加工しないといけないんだ。
長期保存できるように、何らかの作業をしないといけないんだ。
刹那的な泡沫のような存在にしたくないのなら。
実が全て落ちて朽ち果てた後は、 どんなに求めたってもう実の一粒も手に入らない。 もちろんジャムなんて手に入らない。
だから・・・自分の精神活動の実が沢山どんどん生まれる時期は、 期間限定なのだと・・・もっとしっかり自覚するべきなんだ。
その時期を過ぎてしまうと、 あんなにも有り余るほどポンポンできて、存在してたものが、 決して手の届かないものになってしまうから。
冬になったら・・・もう、 真っ赤な実が有り余るほど生き生きとたわわについていた、 あの眩い光景は、まるで、夢幻のようになってしまうから。
あー・・・だから、私はきっとこんなふうに文章を書き続けて、 残そうとしているのだろう。
ポンポンと、人知れず密やかに私の中で生まれて、だけど 確かに存在する一連の思考の流れを、 一瞬で消え去る泡沫のような存在にしたくないから。
なんとか残そうともがいているのだろう。