あー創作物は嘘をつけないんだなあとつくづく思う。
前回の記事を書いた時、私は明らかに体調がすぐれなかった。
体調がすぐれないと、辛気臭い文章をどうしても書いてしまう。
アランが言うように、体調と精神はつながっているのだろう。
良くも悪くも、創作物はその人を鏡の様に反映してしまう。
最近書いたデジ絵もこんな感じになってしまった。
本当はもっと、…違う感じに描きたかったのに、鬱鬱とした絵になってしまった。
やっぱり、心が「そう」なときは、「そう」な絵しか描けない。
因みにこの絵はこの記事で書いたススキ林を想像して描いた。
この記事でこんなことを書いている↓
それは、月の綺麗な孤独なすすき林の中のようだったかもしれない。
この感じを絵で表現したかったのだけれど、なんか納得いくものが描けなかった。
また、再チャレンジするかもしない。
この絵は・・・なんていうか、ちょっと未熟な感じで生み落としてしまった感じ。
やっぱり創作物って、無理やり生み出してもよくない。
私は過去にこんな記事を書いたのだけれど、
芸術・・・創作物は創った人の「子ども」だ。
その人の精神的な何かが、個体内で成長して、何かが形成されて、外へ出て行けるような形となった時に「創作物」という形で排出されるのだ。
私はやっぱり今でも創作物は子どものようだと思う。
やなせたかしさんが「詩にしても、絵にしても、まず内なる人間の完成が問題であって、作品はごく自然にあふれでるものです」と『誰でも詩人になれる本』で書かれていたのも私は納得できる。
最近拾い読みしたニーチェの『この人をみよ』でも、ニーチェは創作活動をするときの外部からの防御反応を妊婦が引きこもる様で比喩していた。
だから、私が私なりにたどり着いた比喩は、そこまで的を外したものでもないと、思う。
だから、子どもは大きくなったら自然と出てくるものなんですよ。創作物もいっしょ。きっと。
無理に出そうとしても出ない。
生むべき時になったら、むしろ出さないと苦しくなる。
そんなものだと思う。
『この人をみよ』でニーチェは「人類の最大の贈り物」と自負する著書『ツァラトゥストラはかく語りき』についてこんなことも書いていた。
「偉大なものを生み出すと、偉大なものから復讐される、永遠の命を持つものを生み出したら、生み出した親は何度も死ぬことになる」・・・だっけ?(あー本を図書館に返して手元にないから、正確に引用できない(´;ω;`))
まーこんな感じの事が、書かれていて、ニーチェすげーってなった。
また、いつか『この人をみよ』を読み返してみたい(時間が無くて全くしっかり読めなかったので)
妊娠中って確かに辛いことが多いんですよ。
つわりは終わりの見えない地獄にいるよう。
匂いにも敏感になる。
色々なことに敏感になる。
胃の不快感も、常にあった(私の場合 )
出産ももちろん激痛。
だけど、そんな苦しさがあってもやっぱり子どもを産むのを求めちゃうんですよね。
こう考えたら、やっぱり、創作活動と子どもを生む事ってとても似てる。
焦らず、気長に、忍耐強く、苦しいことがあっても耐え、適した何かを常に取り込みながら、その子をいたわりながら、いつか来る、ベストな状態で生み落とせる時期が来るのをひたすら待つしかないのかもしれない。
いくら素敵な何かを生みたくても、それが、自分の中で成熟していなかったら、出てこれない。
でも・・・ぼんやり何もしなかったら、やっぱりいつまでたっても何も生まれない。
何かを生み出すための努力は継続しないといけない。ひたすら日常の一部の様に継続しないと・・・何も育っていかない。何も生まれない。
でも・・・いくら生み出したくても、いくら頑張っても、必ず生めるわけでもない。
「神さまからの贈り物」
的な面もきっとあるのだろう。
そして、出産は健康な身体が必要なように、創作物をうみだすのは、健康な精神が必要なのだろう。
・・・と、最近「創作物」について考えを巡らしたので、自分の覚書もかねて、記事に残しておくとしよう。
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