当たり前の事っていったら、当たり前のことだけれど、やっぱり人間はどんどん忘れていく生き物だなあって思った。
いくら、強く強く自分の心に衝撃を与えたことも、やっぱり、忘れ去っていく。
まるで、どんなに深い、体に負った傷も、時間の流れと共に消えていくように。
体と同じで、心に負った傷もいつかは癒える。
あまりにも傷が深すぎたら、痕になってしまうけれど、やっぱり傷を負った、正にその瞬間の感覚は保存されない。
あの、ズキンズキンという血が駆け巡るような感覚は失われる。
忘れるのは、生きるために必要な能力だと思う。
でも、「忘れる」は同じ過ちを繰り返してしまう要因ともなる。
だから、人間は、「形に残す」という能力を持っているのだと思う。
そうやって、同じような過ちを繰り返さないようにしているのだと思う。
形に残さなかったら、ちっぽけな自分の中で「忘れる」という本能と「忘れたらまた同じ過ちを繰り返してしまうから忘れちゃだめだ!」という理性がずーーっとぶつかり合てせめぎ合ったまま存在することになり負担だ。
だから、「形に残す」っていうのは、自分で自分の荷を下ろすことだと思う。
自分で、自分を楽にしてあげることだと思う。
だから、形に残して、残して、残して、残して、そして・・・忘れて、忘れて、忘れて、自分を発展していけたらいい。
大事な事は、「形に残したもの」をしっかり適切に生かすことだと思う。
それが、自分にとって大切なものなら、自分に生かせばいい。それが、自分以外の人にとって大切だと思うのなら、その人に生かされるように、きちんと伝承すればいい。
私は、最近個人で生じることは、全体にも通じるものだと、強く感じる。
例えば、戦争という、どんなに刺激的な出来事が過去にあっても、どうしてもどうしても、時間の経過とともにその時生じた「何か」は忘れ去られていく。
きっと、当事者だって記憶が薄れていっている。
それは仕方ないことだし、幸せな事でもある。生きる本能だから。
傷が癒えていくことが悪いことなはずがない。
でも、何も形に残さず忘れ去ってしまってはきっとよくない。同じ過ちを繰り返したくないのなら。
だから、当事者の誰かが、今後の平和を強く願って生み出した「戦争を繰り返さないために形に残したもの」を、大切に大切に生かすべきだ。
それは、それを残した人の為じゃない。今後戦争をしたくない今の人の為だ。
・・・そんな感じで、個人で生じることは、規模を大きくしても成り立つことが多々ある気がする。
「形に残す」っていうのは、発展するためにある。
同じ場所をぐるぐる回らないようにするためにある。
私は私の中で生じたことを文章で書き残していくことで、その文章で自分が発展できると信じてる。
自分に生じたことは、忘れたくない。
でも、弱いちっぽけな私の「忘れたくないこと」倉庫はもういっぱいだから。
でも、欲張りな私は「忘れたくないこと」を捨て去ることはどうしてもできないから。
だから、きっと私は、耐えきれず、昔、文章を書き始めた。
文章を書くことによって、やっと安心して自分の中から色々手放すことができた。
つまり、すっきり忘れることができるようになった。
文章を書くという手段を手に入れた私は、その手段がない頃より、更に自分を発展させる可能性が広がったと思うし、そう信じてる。
私は、「形に残すこと」は自分の発展につながるということを、自分で自分に証明したい。
そして、もし、それが私以外の人の発展にもつながるようなことがあれば、幸せだなあと思う。
自分が感じた大切なことは、決して無になって消えない。
本当に大切な事は何らかの形を残している。
「あったこと」はどうあがいたって「なかったこと」にはできない。
それは、私達の中にちゃんと、「発展する意志」がある証拠だ。
同じところをぐるぐる回っているようで回っていない。
少しずつ少しずつ上昇していく螺旋階段みたいに。
少しずつ少しずつ発展している。
本人は、なかなかそれに気づけないけれど、
少しずつ少しずつ確実に自分の今いる場所は上昇していっているはず。
そう、信じてる。
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