悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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「100万回生きたねこ」は何で最後生き返らなかったのか。考察してみた。

子育て真っ最中のヒエヒエです。

「100万回生きたねこ」という絵本はご存知でしょうか?


こちらの絵本有名ですよね。

私は「良い絵本」とは「子供だけでなく、大人にとっても様々な考えを巡らすキッカケになる絵本」だと考えています。

だとすると、「100万回生きたねこ」は間違いなく「良い絵本」と言えるでしょう。


内容はwikipediaより

主人公の猫は、ある時は一国の王の猫となり、ある時は船乗りの猫となり、その他、サーカスの手品つかいの猫、どろぼうの猫、ひとりぼっちのお婆さんの猫、小さな女の子の猫…と100万回生まれかわっては、様々な飼い主のもとで死んでゆく。その時、100万人の飼い主は猫の死にひどく悲しんでいたが、当の猫はまったく悲しまなかった。主人公の猫は、飼い主のことが大嫌いだったのだ。

ある時、主人公の猫は誰の猫でもない野良猫となっていた。「自分だけの事が好き」な主人公の猫は、100万回生きたことを自慢し、周囲のメス猫たちも何とか友達や恋人になろうと、プレゼントを持ってきたりして周囲に寄ってくる。

しかし、唯一自分に関心を示さなかった一匹の白猫の興味をなんとか引こうとするうちに、いつのまにか主人公の猫は、白猫と一緒にいたいと思うようになる。そして、白猫にプロポーズをするのであった。白猫は主人公の猫の思いを受け入れた。

そして時がたつと、白猫はたくさん子供を産み、年老いてゆき、やがて猫の隣で静かに動かなくなっていた。そこで猫は初めて悲しんだ。朝になっても昼になっても夕方になっても夜になっても、猫は100万回も泣き続け、ある日のお昼に猫は泣き止んだ。

そして猫も、とうとう白猫の隣で静かに動かなくなり、決して生き返らなかった。

出典:100万回生きたねこ - Wikipedia

文字だけの説明だと、分かりにくいですね。

とりあえず、未読の方は是非一度絵本を読んでみてください。


何故猫は100万回も生き返ったのでしょう?

何故猫は最後に生き返らなかったのでしょう?

読み終わった後、さまざまな疑問やなんとも言えない余韻が残ります。

人それぞれで、様々な受け取り方、解釈があるでしょう。

それができる内容ほど、私は素晴らしいものだと考えています。

それを承知の上で、私の「100万回生きたねこ」の解釈を述べさせてもらうと、

この絵本は「愛」の性質を見事に表していると思います。

猫は愛されます。猫が死んでしまうとみんな泣くのです。

猫は沢山の愛を注がれるのです。

「愛」についてはこちらの記事で私の考えを書いています→

www.hiekashi.com


こちらの記事で述べているように愛とはエネルギーで、猫には沢山の愛というエネルギーが注がれているのです。

ですが、猫はその愛をすべて受け流しています。

そう、猫は「愛」の扱いを知らないのです。

いくらコップに沢山の水を入れようとしても、蓋をしていれば、一滴もコップには水が注がれない。

いくら「愛」が注がれても、それに無関心だと、「愛」というエネルギーは悲しく流れ去っていくだけです。

「愛」は与える側と受け取る側が相互に正しく作用してこそ、増幅できるのです。

猫が大っ嫌いだった、猫を一方的に愛した人間達はきっと独りよがりの「愛」だったのでしょう。

自分の為に「愛」を与えている。

独りよがりで、悲しい存在として「人間」が描かれている気がします。

人間たちは自分の為だけにねこを愛していた。

自分の為に猫を利用していた。

きっとその一方的な愛は猫にとっては嫌なものだった。

だから、大っ嫌いだったのでしょう。

そう、人間達は自分の為に猫を利用していただけなのです。

人間の一方的過ぎる「愛」は猫を幸せにすることは出来なかった。

猫は何にも満たされなかった。

不満だった。

だから生まれ変わった。

何回も何回も。

結局、猫の心を満たしたのは、唯一猫の自慢話しに無関心だった「白猫」でした。

「白猫」がキッカケで、猫は初めて「愛」を与えることを知るのです。

ずーっと「愛」を受けるだけだった猫が初めて「愛」について学んだのです。

愛する事を知り、やっと正しく「愛」を相互で作用することができたのです。

愛し愛されることの素晴らしさを知る。

「愛」を増幅することができたのです。

「愛」を増幅することができて、初めてこころが満たされるのです。

ねこは満足した。自分の一生に。

満足したから、もう生き返らなかったのではないのでしょうか。

言い方を変えると「愛について無関心、無知だと、100万回生きても心が満たされることは決して無い」という厳しいメッセージにも受け取れる気がします。

正しく愛すること。

それは本当に相手の事を考えてのことか。

その「愛すること」が気づかないうちに「自分の為」だけになってはいないか。

独りよがりになってはいないか?

ペットや老人の延命治療は本当に彼らの為になっているか。

その子供への愛は子供を苦しめていないか。

自分本位になっていないか。


一方通行の愛は相手の心を満たす事はできない。

「愛する自分」に酔って、かえって相手を見失っていないか。

また、周りの「愛」に気づかずに過ごしていないか?

「愛」に無関心な限り、心は満たされることはない。

私たちがよりよく生きる為には、「愛」について学ばなければいけない。

「愛」について気づき、正しく扱ってこそ、心は満たされ続けるのだから。

「愛」は相互が努力を継続してこそ、輝きを放ち続ける事ができるのだから。

「100万回生きたねこ」の絵本の正しい解釈なんて存在しないのかもしれない。

けれど、私はこんな事を考えれずにはいられないのです。

こんな「愛」についての考察を生み出してくれた「100万回生きたねこ」は間違いなく「良い絵本」だと。

以上、絵本「100万回生きたねこ」についての考察でした。


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2019年の抱負は「折々の言葉」のデカルト、そしてミスチルから。

2019年初めてのブログ更新です。

なんやかんやで長くブログを続けております(2年以上かしら)。

3人の子育てでブログにかける時間がなかなか取りにくくなっていますが…

子育て第一優先!ブログはその次!ぐらいでまだまだ細々とブログを続けていこうと考えています。

今年も私なりにブログ更新をボチボチ頑張っていくので、よろしくお願い致します(^_^)

私のブログの内容は一応「子育て情報」がメインのはずなのですが…

最近、自己啓発?みたいな内容が多くなっているような…

自分への戒め的な内容が多いような…

例えばこんな記事とか。

www.hiekashi.com

私はこのブログ名で「悩みすぎ」とあるように、頭の中でグルグルとネチネチ考え込むタイプでして…

ブログを始めて気づいたのですが、その頭の中のグルグルを文章にしたら、とても頭がスッキリとして爽快な気分になるのです。

文章への昇華っていうのでしょうか?

そして、頭のごちゃごちゃを文章化することによって、客観的に物事を整理でき、思いがけずいい考えがひょっこり出てきたりするのが面白いのです。

私自身の悩みの解決方法がひょっこり出てきたりするわけです。

先程紹介した記事も私自身がとても悩んでた事で、苦しみ、頭の中でグルグル考えて、なんとか自分の中で落とし所を見つけた、その考え方をまとめただけの話です。

まー私なりに頭の中で、エネルギーと時間をかけて、なんとかスッキリした考え方の筋道が、誰かさんの役に立てばいいなと。時間とエネルギーの節約になればな、と。

同じような迷路に迷い込んでいる人の、少しでも道しるべになればいいな、と。

しがない主婦がささやかに思っているわけです。

ということで、こんな内容に一貫性がないブログですが、苦痛にならず楽しく続けれたらいいなと思っています。

うん。これが私にとって一番難しいことなんだな。

楽しくやったらダメだ!苦しまないと!みたいな変なアホみたいな呪縛。

この呪縛を解くことは私の人生をかけた課題かも。

でと、前置きが長くなりましたが、一応今年初めての記事ということで、人生をかけた課題は置いといて、今年の抱負についてでも書こうと思います。

今更感満載ですが、12月に以下の朝日新聞の「折々の言葉」の内容に感銘を受けました。

ゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる

デカルト

この言葉。心にきます。

「ウサギとカメ」の話のカメのことを表してるようです。

常に正しい道をゆっくり歩くことは本当に骨が折れる。根気がいる。

しかも、自分が歩いている道が時々正しいかどうかも信じれなくなるほど自分が情けなくなることもある。

ですが、落ち着いて堂々と正しい一歩一歩を踏みしめて歩いて行く事が大事だと。

うん…。

これ…

人生をかけた抱負だわ。


いやはや、今年の抱負の話がどうしてもスケールの大きい話になってしまいます。

まぁ、いつもの私の思考の癖ですな。

軽く力を抜いて考えないとな。

ということで、今年の抱負は、

うーん、

子育てを楽しく!今を大事に!ハッピーハッピーで!幸せを抱きしめて!

って感じでいっか。

いや。これ意外と難しいからね。うん。

「幸せはいつだって抱きしめたとたんにピントがぼやけてしまうから

そうなる少し前でしっかり見続けよう
なんてできるのかなあ」

これミスチルの「少年」の歌詞の私が大好きな部分。

本当に幸せは探せば探すほどしんどくなる。

目の前のことに集中しないと。

私の大事な子供達と一緒に過ごす時間をかみしめて過ごさないと…。

そういえば、去年は幸せについての記事も書いたなぁ

www.hiekashi.com


ということで!今年も引き続き子育てを頑張っていきます☆

以上!今年がみなさんにとって素敵な幸せな年になりますように。

世界を広げるにはリスクを負う以外道はないのだから。

欲しいものがあるならリスクを負わないといけない。

リスクを負わないで欲しいものを手に入れるなんて出来ない。

でも、リスクを負っても欲しいものが手に入るとは限らない。

自分が「羨ましい〜ずるい。羨ましい〜ずるい。」と思っている対象はあるか。

そして、自分はそうなる為に一体何をしてるか。

何もしないくせに、指をくわえて文句を言っていないか。

暖かい布団から出れないで、うだうだしていないか?

車に乗りたいなら、まず免許をとらないといけない。

車屋さんに足を運ぶのではない。
自動車教習所に行かなくてはいけない。

まず、そこを間違えてはいけない。

そして車に乗ったら、乗らないよりは事故にあう可能性が高い。

車に乗ったら、乗らないよりお金がかかる。

でも、車に乗れる。

車に乗れたら世界が広がる。

でもリスクも高くなる。

出来る事が増えていくとそれによる恩恵がある分、苦悩もある。

目が見えると綺麗な風景が見れる。

だけど、醜い物も見える。

耳が聞こえると、美しい音楽が聴ける。

だけど、聞きたくない言葉も勝手にはいってくる。

幼児だって出来る事が増える分、それによる苦しさも知る。

言葉が理解できるようになったら、言葉によって嬉しくも、辛くもなる。

ああ、言葉でこんなに傷つくのは、言葉が分かるからだ。

自分の生きる世界が広がるということは、傷つく原因も増えるのだ。

傷つく事を恐れていると前に進めない。

傷つくことは怖い。

言葉で傷つくことを知らない無知な子どもだからこそ、言葉を覚えれる。
前に進める。

無知な子どもは前に進むことしか知らない。

傷つく事を怖れてたら、何もできない。

でも…

大人になったら、子どものように無知ではない。

傷つく辛さを知ってしまっている。

世界が広がるのが億劫だ。

これ以上世界を広げたら、リスクも増える。

そう。自分がその広さで満足しているのならいい。

だけど、もしも嫌なら…。

傷つくことを覚悟して一歩を踏み出すしかない。

寒さを覚悟して布団から出るしかない。

うだうだ無駄に考えることは、ただの時間の無駄使いであることに気づかないといけない。

何も考えずに、布団を蹴り上げて起き上がらない限り何も始まらない。

寒さを覚悟して布団から出ないことには何も始まらない。

世界を広げるにはリスクを負う以外、道はないのだから。

もしかしたら、運命の出会いが、その日にあるかもしれないのだから。

千里の道も一歩から。

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