悩みすぎな私の子育てライフ

3人の子育て中専業主婦のチャレンジブログ。

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自分のなかでの合格ラインの40歳を目指す。

私はさんじゅう、んー歳だ。

 

私は、今までブログで文章を書いてきたけれど、それは、もちろん、当初思い描いていたようにバンバンバズらなかったし、人気ブログになんかにもならなかった。

 

もちろん、その現実がとても苦しくて、孤独でたまらなくて、自分がこんなことに貴重な血税のような時間を費やしていることに、うしろめたさも感じたり、馬鹿みたい…と絶望する時もあった。

 

でも、私は、それでも、やりたいことを素直にやってきた。

本当に書き残したい事を書いてきた。

 

だれにも媚びようとしなかった。

媚びるのは好きじゃないから、媚びるぐらいなら、ほっとかれる方が好きだから。

 

そうやって、私は、相変わらず、昔のように孤独の中に自ら入っていった。

やっぱり、人の根本の性格はいつまでたっても変わらない。

でも、そうやって生きてきて、やっと最近になって、自分の本当にやりたいことに集中する力がついた…と思う。

 

やりたくないことを無理にやらない要領も、少し知れた気がする。

 

ブログを通してそんな力が付いたと思う。

 

少なくとも、こんな風にブログを書いてこなかったら、詩なんて一生書かなかったかもしれない。

 

私の「詩を書く事」は、ブログで書きたいように書いているうちに、気づいたら、自然と書いていた形だ。

 

詩を書く楽しさや、美しさなんて、ブログを書き続けなかったら、たどり着けなかった景色だ。

 

それに気づけただけでも、文章を書いてきてよかったと思う。

 

そして、気づけた。自分の理想の場所に届くために行動する楽しさを。

 

創造する楽しさを。そのためには孤独の中に入っていかないといけないことも。

 

私は、私の思い描く自分の理想に向かってしっかりと歩いていけば、孤独でもいいってことを。

 

むしろ、孤独じゃないとその道を歩けないことを。

 

私の人生は、私の人生だ。決して他人の顔色を窺ってどうこうするものじゃない。私の人生は他人が作るんじゃない。他人に作ってもらうものでもない。自分で作るしかないんだ。

 

私は、自分の人生を後悔しないために、自分の理想に向かって、毎日を一つの人生の様に大切に使う。

 

自分の人生を自分で感動するためには、自分で、自分を感動させるしかない。

 

私は自分の人生をつまらないものじゃなく、感動的なものにしたい。

 

それは、他人から見てつまんないものであったとしてもいい。

 

私が感動できればそれでいい。

 

自分が思いっきり熱くなって、感動して、「あーなんて世界は美しいんだ」と思える人生にしたい。

 

だから、私はそのために人生を自分の力で創造したい。

 

自分の人生を他人のせいにしたくない。

 

自分の人生を他人に依存させたくない。

 

だから、そのために、私は強く進んでいきたい。

 

あまりにも遠くを見すぎると、くじけそうになるから、まずは近くの目的地を目指す。

 

私の場合、私が許せる40歳を目指す。

 

私が40歳までにこの状態だったら、まーいいだろうっていう状態を想像する。

 

それが、他人から見て、何が立派か全く分からなくてもいい。

 

私が合格ラインだと思っているのなら、それでハナマル。

 

そんな、状態を目指す。

 

私は、その状態まで、毎日を大事に大事につかいたい。

 

私はとてつもなく、恐ろしいほどすぐに忘れてしまうから、毎日毎日、しっかり思い出す。

 

自分の目指すべき40歳の姿を。

 

毎日毎日思い出す。

 

思い出して、自分で自分の尻をたたく。

 

それを繰り返す。

 

こんな地味なことの繰り返し。

 

それこそが、遠くに遠くに届く唯一の方法だ。

 

地味で長い長いこつこつとした積み重ねの大切さに、私はようやく心から気づけたようだ。

 

昔私は、孤独がとてつもなく恐くて、孤独を癒すためだけに群れていた。

 

そして、やっぱり群れるのも嫌で、だけど、孤独も嫌で、その狭間で苦しんだ。

だけど、今は、群れるなんてまっぴらごめんで、孤独な状態に自ら入りたがる。

今は孤独を愛してる。

そうなれたのは、私が自分が孤独じゃないと信じれるからだ。

自分の役割があるからだ。

 

そう心から思える自分は成長したと、しみじみ思う。

 

私は私の目指す40歳に向かって、これからも孤独の中をしっかりと、着実に歩いていきたい。

 

 

 

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電気のスイッチOFFのように消える自分をイメージする。

自分がまるで、電気のスイッチをパチッと押すように、この世界から消えることを考える。

 

今この瞬間、パチッと自分が消える。

 

電気のスイッチOFF。

 

そんなことを考えたら、なんか、今日を精いっぱい生きようと思える。

 

今、この世界に自分の体をもって存在していることが、とても愛おしく感じる。

 

人間って不思議だ。

 

終わりが見えたとたん、やる気がでる。

 

終わりが見えないと、やる気が出ない。

 

失ったとたん、とてつもなく大切なように思う。

 

失わないと、大切さに気付かない。

 

私は時々、何にもやる気のでない、虚無の方向に傾きそうになる時がしばしばあった。

 

特に若い頃は、しょっちゅうそんな暗い闇の穴に吸い込まれてうずくまっていたように思う。

 

だけど、最近そんな闇の穴に吸い込まれそうになる時、「スイッチOFF」の状況を意識すると、やる気を取り戻せることに気付いた。

 

あまり大きな声で言いたくないが、私は昔、本当に何もかもが限界で、ひたすら孤独で、もう死んでしまおうかと本気で思ったことがある。

 

その時の苦しさを思い出したら、今の私はなんだか何でもできそうな気になってくる。

 

生きてるだけで丸儲けってやつ?

 

あー私は、あの時死んでもおかしくなかった。だから、今生きているのは奇跡だ。

 

そう、思うと、ずっと生きれる気がする。

 

「生」の実感を失いそうになったら「死」を意識する。

 

「死」は私に「生」のエネルギーを与えてくれる。

 

「死」は恐くて、辛くて、苦しくて、暗くて、何だか、嫌だ・・・って悪いイメージだけれども、

 

実は「生」の為にはなくてはならないものなんだ。

 

より生の美しさを表現したいのなら、「死」は欠かせない。

 

だから「火垂るの墓」はあんなにも、「生」をずっしり感じる。

 

「死」という黒色によって「生」という白色をより際立たせることができる。

 

或るものへのありがたさをより強く感じたいのなら、それが失われた時の事をイメージするしかない。

 

人間は良くも悪くもすぐに忘れてしまって慣れてしまう生き物だから。

 

時々、そんな生物である自分をメタ認知して、大事な事の為に思い出して意識することがとても大事だ。

 

別に、いつも「死」をイメージして生きろ!なんて言いたいわけじゃない。

 

時々でいいと思う。

 

「あっ、忘れてきたな」って時に時々で。

 

時々、極端に傾いてしまいそうになった時、ちょっと反対の極端な先をイメージする。

 

それが、生き生きと生き続けるためのコツかもって思ったって話。

 

きっと「永遠の命」の何かがあるとしたら、それはきっと「生」の美しさを一切もっていない存在なのだろう。

 

自分のどん底の状態を知っている人間にしか、自分の最高の状態を知ることはできない。

 

だから、自分が感じてきたすべての経験は自分の人生を豊かにするそれぞれの色になる。

 

私は自分のどん底の時の色を知っている。

 

でも、その色を手に入れたおかげで、私という人間を、より深みのある人間に表現できる可能性も手に入れた。

 

自分のすべての色を愛せるようになりたい。

 

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忘れないために「形に残す」のは発展するためだ。

当たり前の事っていったら、当たり前のことだけれど、やっぱり人間はどんどん忘れていく生き物だなあって思った。

 

いくら、強く強く自分の心に衝撃を与えたことも、やっぱり、忘れ去っていく。

 

まるで、どんなに深い、体に負った傷も、時間の流れと共に消えていくように。

 

体と同じで、心に負った傷もいつかは癒える。

 

あまりにも傷が深すぎたら、痕になってしまうけれど、やっぱり傷を負った、正にその瞬間の感覚は保存されない。

 

あの、ズキンズキンという血が駆け巡るような感覚は失われる。

 

忘れるのは、生きるために必要な能力だと思う。

 

でも、「忘れる」は同じ過ちを繰り返してしまう要因ともなる。

 

だから、人間は、「形に残す」という能力を持っているのだと思う。

 

そうやって、同じような過ちを繰り返さないようにしているのだと思う。

 

形に残さなかったら、ちっぽけな自分の中で「忘れる」という本能と「忘れたらまた同じ過ちを繰り返してしまうから忘れちゃだめだ!」という理性がずーーっとぶつかり合てせめぎ合ったまま存在することになり負担だ。

 

だから、「形に残す」っていうのは、自分で自分の荷を下ろすことだと思う。

 

自分で、自分を楽にしてあげることだと思う。

 

だから、形に残して、残して、残して、残して、そして・・・忘れて、忘れて、忘れて、自分を発展していけたらいい。

 

大事な事は、「形に残したもの」をしっかり適切に生かすことだと思う。

 

それが、自分にとって大切なものなら、自分に生かせばいい。それが、自分以外の人にとって大切だと思うのなら、その人に生かされるように、きちんと伝承すればいい。

 

私は、最近個人で生じることは、全体にも通じるものだと、強く感じる。

 

例えば、戦争という、どんなに刺激的な出来事が過去にあっても、どうしてもどうしても、時間の経過とともにその時生じた「何か」は忘れ去られていく。

 

きっと、当事者だって記憶が薄れていっている。

 

それは仕方ないことだし、幸せな事でもある。生きる本能だから。

 

傷が癒えていくことが悪いことなはずがない。

 

でも、何も形に残さず忘れ去ってしまってはきっとよくない。同じ過ちを繰り返したくないのなら。

 

だから、当事者の誰かが、今後の平和を強く願って生み出した「戦争を繰り返さないために形に残したもの」を、大切に大切に生かすべきだ。

 

それは、それを残した人の為じゃない。今後戦争をしたくない今の人の為だ。

 

・・・そんな感じで、個人で生じることは、規模を大きくしても成り立つことが多々ある気がする。

 

「形に残す」っていうのは、発展するためにある。

 

同じ場所をぐるぐる回らないようにするためにある。

 

私は私の中で生じたことを文章で書き残していくことで、その文章で自分が発展できると信じてる。

 

自分に生じたことは、忘れたくない。

 

でも、弱いちっぽけな私の「忘れたくないこと」倉庫はもういっぱいだから。

 

でも、欲張りな私は「忘れたくないこと」を捨て去ることはどうしてもできないから。

 

だから、きっと私は、耐えきれず、昔、文章を書き始めた。

 

文章を書くことによって、やっと安心して自分の中から色々手放すことができた。

 

つまり、すっきり忘れることができるようになった。

 

文章を書くという手段を手に入れた私は、その手段がない頃より、更に自分を発展させる可能性が広がったと思うし、そう信じてる。

 

私は、「形に残すこと」は自分の発展につながるということを、自分で自分に証明したい。

 

そして、もし、それが私以外の人の発展にもつながるようなことがあれば、幸せだなあと思う。

 

自分が感じた大切なことは、決して無になって消えない。

 

本当に大切な事は何らかの形を残している。

 

「あったこと」はどうあがいたって「なかったこと」にはできない。

 

それは、私達の中にちゃんと、「発展する意志」がある証拠だ。

 

同じところをぐるぐる回っているようで回っていない。

 

少しずつ少しずつ上昇していく螺旋階段みたいに。

 

少しずつ少しずつ発展している。

 

本人は、なかなかそれに気づけないけれど、

 

少しずつ少しずつ確実に自分の今いる場所は上昇していっているはず。

 

そう、信じてる。

 

 

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