悩みすぎな私の子育てライフ

3人の子育て中専業主婦のチャレンジブログ。

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若者の孤独の苦悩

時間に余裕があったので、久しぶりにぼんやりと昔の自分を回想してみた。


人って、余裕があると、こんなことに脳みそを稼働し始めるのだろうか。


自分の過去に生じたことを回想して、自分についてじっくりと考えれるっていうのは…なんとも贅沢な時間の使い方だと思う。


…ということで、自分を回想した際、頭に生じた思考をここに書き残しておこうと思う。


過去を振り返ってみて、もっとも強く印象的に思い返された感情は「孤独の苦悩」だった。


私は若者の頃、とても孤独で苦しんでいたように思う。


若者…私の記憶では、私はすでに幼稚園の時からずっと孤独に苦しんでいたように思う。


なんだか、みんなが無邪気に常に笑ってるのがよくわからなかった。


「みんながよくわからない」


そんなことばっかり小さい頃感じていた。


だから、常に周りに合わせて作り笑いをしてばっかりだったように思う。「普通」からはずれまいと、取り繕うことに常に必死だった。


今振り返ったら、私はきっと少し変わった子どもだったのだろう。


そして、そんな感じはなんと20歳ぐらいになるまでずっと続いたように思う。


孤独は私に常にへばりついていた。


そして、ひたすら苦しかった。


だけど、今になって孤独の苦しさの理由を考えてみると、私自身がその状態を望んでいたように思う。


私は自ら孤独になっていた。


私が孤独なのは、ずっと周りのせいだとばかり思っていた。


だけど、そうじゃなかった。


私が孤独なのは自分のせいだった。


それは…おそらく…周りと自分を混ぜたくなかったから。


周りと一緒になりたくなかったから。


自分というものを守りたかったから。

 

自分の世界を誰にも邪魔されたくなかったから。


周りから自分の孤独を守りたかったから。


…ということに大人になってから気づいた。


私は自ら精神的に孤独になって、苦しさを作っていた。


私自身がそういう性質だったから。


最近、自ら苦しさに向かうのは、その逆に位置する極にあたる場所にある快楽を無意識に自分自身が望んでいるからだと分かった。


つまり、私の性質と当時の若さが、自然と孤独の苦しさをしばしば生み出していた。


健康な若者がひたすらお腹が空くのと同じだ。


ひたすらお腹がすくのは、その分、エネルギーが必要だからだ。成長するためにエネルギーは必要だから、空腹の苦痛は度々訪れる。


若者がひたすら孤独に苦しむ羽目になってしまうのは…きっと、成長に必要な「愛」を必要としているからだろう。


人間が自ら苦しさに向かうのは、その逆に位置する快楽を求めているからだ。


または、快楽を貪りすぎて、不本意に苦しさに出会う羽目になっているか…だ。


だから、苦しさに出会わない唯一の方法は、快楽に出会わないことだ。


失うのがいやなら、何も手に入れなければいい。


苦しみを感じたくなければ、その苦しみを生み出す要因となる欲望を排除すればいい。

 

確か、そんな感じのことを説くのが仏教の教えだった気がする。

 

ニーチェが仏教を「宗教というより衛生学」といったのは、今ならよく分かる。

 

確かに苦しみに出会わない手段としては1番理にかなっている。


だけど…それは、病院の先生が患者に言う綺麗事と同じだ。


「健康のためには、一切甘いものを口にしちゃダメ、お酒も駄目、タバコも駄目、夜更かしも駄目…」


そんな言葉は強烈な欲望をもつ若者の悩みなんて何一つ解決してくれない。


若者にとって、今の欲望がどれだけ強烈に感じてしまうかってことを大人になったら忘れてしまうらしい。


若者でなくても、私たちは生得的に沈黙の欲望に支配されているのだから、苦しさからはそう簡単には逃れれない。…だけど、欲望が大きい若者よりは、その反動でやってくる苦しさから逃れたり、欲望を管理するのは、経験豊富で成熟した大人の方がきっと容易なのだろう。


だから…若者の孤独がひたすら苦しくなるのは…当たり前で健全なことだと思う。


孤独がひたすら苦しくないと、ひたすら愛を求めないのだから。


愛を求めないと、他人と繋がろうとも思わないのだから。


ひたすら苦しい孤独の先に、愛のこの上ない快楽があって美しく出会えるのだから。


その強烈な出会いは若者の特権のように今振り返ってみて思う。


そして、孤独がさほど苦しくなくなった時は、もう愛の快楽も大したことなくなる。


それは…つまり…成熟した…落ち着いた大人になったってことなのだろう。自分が納得する安定した環境を手に入れれたってことなのだろう。


でも、それは裏を返せば、現状に満足して、成長がほとんどなくなっている状態ってことになると思う。


だから、私は…変な言い方だけど、ずっと仄かな孤独の苦しみに定期的に訪れて欲しい。


ある種の精神的な孤独の苦しみには、またまだ出会い続けたい。


若い時みたいな強烈な孤独の苦しみはもういい…というか、もう遠のいた過去だから。


もう望んでも手に入らないし、もう必要ないから。


でも、その時とは違うステージの孤独はまだまだ私には必要だと思うから。


成長するには、どうしても、苦しみを通らないといけないから。


苦しみをとおらないと、快楽もとおれないし、成長もできないのだから。


私はなるべく罪を犯さず成長したい。


罪…すなわち「的外れ」。


自分の望む成長のためだけに、苦しみを通りたい。


罪による苦しみなんて、全部避けたいんだ。


自分が納得して受け入れた苦しみだけしか感じたくない。


私は出産の時の痛みのような苦しさは感じたいけれど、生活習慣病みたいな病によって生じる苦しさはまっぴらごめんなんだ。

 

…なんてことを自分の過去を振り返りながら、考えた。

 

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海の中ってなんであんなに綺麗なんだろう?

 

ずっとチャレンジしたいと思っていた海の中の絵を描いてみた。

海中ってなんであんなに魅力的な色合いなのだろう。

小さい頃に見たクリスチャン・ラッセンの海の絵は無性に印象に残ったのを覚えている。

小学生のころ、夏に遊び行ったプールでぼんやりと水中からよく水面をみていたのを覚えている。

水中にいるとき、なんだか懐かしい感じがするのは、人間もずっと昔は海中で生きていたからなのかな?

 

それがホントかは知らんけど。

 

理由はよくわからないけれど、私は海が好きなようだ。

 

そして、絵を描くのはとてつもなく楽しいのだけれども、それと同時にとてつもなく時間を使ってしまう事実に、私は今よくわからない仄かな罪悪感を感じているのでした。

 

やっぱり、創作活動は色々なものを犠牲にするものなのだなあ。

色々なモノの犠牲の上で生まれたその創作物が有意義なものになるならともかく、そうでない場合は?

 

・・・私は時々よくわからなくなってしまう。

 

・・・でもしょがないよね。描きたいものは描きたいのだから。

 

そして、やっぱり時間をつかって描いたものは無駄にしたくないから、こうやってブログにアップするのだなぁって思う。

 

きっと、私の中の何かに対するあがきなのだろう。

 

もしかしたら、ブログという場があるから、私は絵を描こうと思えるのかも?

 

私が家事やらなんやら・・・をする時間を犠牲にして生み出したこの絵がなにか有意義なモノを生んでくれるかも・・・って、きっと期待しているんだろうな。

 

とりあえず、生きているうちに心からやりたい事はしっかりやって、その行為が無駄になって消えないように、何とか・・・形として残していきたいです。

 

私は自分が死ぬときは、自分を空っぽにして死にたいです。

だから、私はそこに向かって今からコツコツ準備しないとなって思うのです。

 

やりたいことを今からしっかりコツコツとやっていったら、きっと、死ぬ間際文句たれぞうにならずにすむはず。

 

「あーあれもやればよかった、あーこれもすればよかった、まだあれもできてないじゃないか。今までなにやってたんだ・・・。あーもどれるならあの時にもどりたい・・・。」なんて頭の中でぼやきながら死に出会いたくない。

 

だから、少しずつ色々なモノを手放していくために、多少醜い部分を見せてしまうことに繋がろうが、自分を晒していかないといけないんだなって思う。

 

自分の醜い部分を晒す恥は、一生手放せない苦しさとくらべたら、些細なことの様に最近の私は思う。

 

少しずつ、少しずつ、自分を手放していきたい。

 

 

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自分を晒す勇気

ずっとぼんやりと思っていたことだけれど、「自分を晒す」ってことをしないと、自分以外の人間を本当の意味で感動させることはできないのだろう。

 

「自分を晒す」っていうのは、理由もなく全裸になる…みたいなことではなく、自分と他人を共鳴させるために「自分という人間を晒す」ってこと。

 

その「晒す」っていうのも、自分の中の意志のためにどの程度晒せるかは、自分でうまく調整してバランスをとりながら、晒せる妥協点を手探りで見つけていかないといけないと思う。

 

「自分という人間を晒す」というのは、大きなリスクを伴う。

なぜなら必ず現れる、やけに変な臭覚に優れた攻撃してくる人間の存在に耐えれる精神力が必要とされるから。

まず、自分に自信がない人は滅多やたらに自分を晒してはいけないと思う。

自分の意志の為に晒していい「自分」というのは、自分が受け入れている「自分」だけだ。

自分で「自分という人間」を肯定できないのに、他人がそんな「晒された自分という人間」を肯定してくれることを望んじゃいけない。それはハイリスクな晒しだ。

 

自分がしっかりと受け入れている「自分」をより効率よく表現できたとき、きっとそれが他人に共鳴する。そしてその「効率よい表現」の技術を身に着けるためには地道な努力が必要不可欠だ。

 

強い想いがこもった、その人が忠実に表現された形は、必ず、その発信者の人となりがしっかりと盛り込まれている。

 

その分かりやすい一つの例が漫画だと思う。

 

漫画は作者の、思想やら、好みやらがふんだんに盛り込まれている。

 

だから、私はいつも漫画を読むとき、漫画家さんの漫画に対する熱意に感動する。

 

あー漫画家さんは自分の伝えたい事を読者に伝えるために、そして読者に楽しんでもらうために、こんなにも自分という人間を晒している、そして、おそらく読者側には分からないとてつもなく大きな苦しみをともなって筆を握っているんだろうな…って。

 

私には時々、それが狂気にすら見えることもある。

そして、その狂気は私には美しく見える。

 

そして「あーここまで自分という人間を晒しきらないと、強烈に他人を感動させることなんてできないんだな」って自分自身の未熟さを嫌という程自覚させられる。

 

私は「誰かを感動させたい感動させたい」って思ってはいるくせに、結局、のほほんと色々な感動を色々なところからもらうだけ。

 

何処かのだれかさんが身を切るようにして自分を晒して生み出した輝く作品を、その眩しさに目をくらませながら、うっとり鑑賞するだけ。

 

そう、私は受け取ってばかり。そして、それがなんだか情けなく悔しい。

 

私は、自分の意志の為に自分を晒すことの極端な例が太宰治の『人間失格』という作品の形だと思う。

 

自分の醜い部分を余すことなく晒してでも、それを用いて芸術作品を生み出したいという狂気。他人から見れば「狂気」だけれど、本人にとっては「意志」なのだろう。

 

そんな風に自分の意志で何かを生み出そうとすることは、まるで、自分の血で文章を書くような・・・そんな感じに思う。自分を晒しながら何かを生み出すってことは、間違いなく自分という存在を消費している。自分を他人に晒すってことは、血を他人に与えるみたいだ。気を付けないと、血は一気に流し過ぎたら、身を滅ぼしてしまう。

 

だけど、自分が強く強くなれば、そして、血を与える量とそのタイミングを自分でしっかりと管理できれば、生きている間に沢山の血を沢山の人に与えれる。

 

誰だって、無駄に血を流したくない。

 

どうせ流すなら、その血を有意義なものにしたい。

 

ふと思った。

 

もし、この私のブログが今一瞬で消え去ったら、私は今までこのブログに与えた大量の血を有意義なものにしてあげれなかったことになる。

 

そんなの私がかわいそうだ。

 

だから、私は私の為にこのブログを大切にしようと思う。もし誰かの役に立たなくても、私だけは役に立てなくちゃいけないと思った。

 

そして、それは私だけのことじゃなく、みんながみんなの血を無駄にしてほしくない。

 

最近「罪は『的外れ』」という言葉を、『100分で名著』という番組中、若松英輔先生の発言で聞いた。

 

「罪は『的外れ』」

 

とても心に響いたし、なんだかしっくきた。

 

私は自分自身を無駄づかいするのは罪だと思うし、もちろん他人を無駄づかいするのも罪だと思う。

 

「罪は『的外れ』」

 

この言葉をしっかりと心に刻みたいと思った。

 

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