悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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2019年からの幼児ポピーの大幅リニューアルに期待!デジタル教材は本当にいいのか?

5歳3歳0歳の育児中のヒエヒエです。
なんと…

2019年4月から幼児ポピーの「あおどり(年長用)」と「あかどり(年中用)」が大きくリニューアルするとのこと!

以下の広告が届きました。

幼児ポピーって?

という方はこちらの過去の記事をどうぞ→
www.hiekashi.com



私が愛用しているコスパ最高の通信の幼児用の教材です。



その私のお気に入りの幼児ポピーが2019年から変わる…。

期待しかないです。

私の3歳の次女は今「きいどり(年少用)」をやっているので、ちょうど2019年の4月からはリニューアルする「あかどり(年中用)」を受講することになります。

5歳の長女は今はポピーをしていませんが、「あかどり」と「あおどり」は経験済み(2学年上をさきどりしたため)

ということで、私はリニューアル前の「あかどり」「あおどり」を知っているわけですので、ダイレクトに比較できるということです。

で、どのようにリニューアルするのか、ですが、

届いた広告に記載しているように色々と変わる点はあるみたいですが、私的に大きいと思った変更点は


・月額980円から1100円になる(それぞれ税込)

・デジタルゲームや動画を活用する内容が追加される。


の2点ですかね。

はい、値上がりはケチな主婦としてコスパにちゃんと反映されるかどうかが気になります。

あ、「きいどり(年少さん用)」と「ももちゃん(2、3歳用)」の値段設定は現状維持(月額980円)みたいですのでお間違えなく!


そして、一番気になるのが「デジタル教材」の導入。

「デジタル教材」に関しては私はほぼノータッチの分野だったので、期待もあり、また不安もある面です。

なぜなら、私はあまり「スマホ」を子どもに関わらせたくないと考えていたからです。

「スマホ」は今の時代、もう必要不可欠な存在になりつつあります。

…が、私には幼児期にはそこまで「スマホに関わらせる」必要性を感じなかったのです。

身近にいつでも手に取れる「スマホ」。どうしても気になってしまうスマホ。

小さいうちから「スマホ」に世界を支配されたくない!…と考えておりました。

幼児にとって寧ろ、悪影響の方が強いのではないかと…。

しかし、今回以下の広告も届きました。

幼児ポピーの名物「脳測定実験」を「新版」幼児ポピーでやったら?!…という報告。

私は専門的な詳細はわかりませんが、幼児ポピー監修の篠原菊紀先生のコメントによると

紙教材は、誌面の端から端まで使ってダイナミックに手を動かしながら取り組める良さがあります。またデジタルでは、指先の細やかな動きの調整ができたり、使用中に短いスパンでトライ&エラーを繰り返すため、同じ時間内で集中して取り組める良さがあります。紙教材とデジタルに取り組んでいるときで、脳の使い方が異なることがわかりました。

と、広告でコメントされています(一部抜粋)。

うーん、とにかくデジタルと紙教材では脳の使い方が異なる!って理解でいいのでしょうか。

脳の使う部分が違う!より脳力アップを狙える!って訳でしょうか(ダジャレじゃないですよ)。

デジタルはデジタルでいい面もあるってことですね。きっと。

私も「デジタル教育」に関して寛容にならないといけないのでしょうかね…。


…とにかく!どの様に新版幼児ポピーでデジタル教材が活用されるのか楽しみです。

また、広告によると「ウォーミングアップ」ページも新版から追加されるとのこと。

こちらも期待大です。

本当に色々とバージョンアップするみたいですね。

2019年4月からはポピーは幼児用の英語教材「ポピーKids English」も始まりますし(詳しくは以下の記事をどうぞ☆)

www.hiekashi.com


「あおどり」と「あかどり」の内容が大幅に変更されますし…

ますますポピーから目が離せなくなりそうです。

以上!「2019年、幼児ポピーが大きく変わる!」というお知らせでした☆




【オススメ記事】

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些細なことで幸せを感じるには些細なことで苦しまないといけない

思考するヒエヒエです。

最近、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の一部が私の頭の中で渦巻いて離れない。

芥川龍之介の「侏儒の言葉」とは…

『侏儒の言葉』(しゅじゅのことば)は、芥川龍之介の箴言集・文学作品。題名の「侏儒」とは体の小さい人、また知識のない人の蔑称。また俳優の異称でもある。

引用サイト:侏儒の言葉 - Wikipedia

芥川龍之介が、どの様に世の中を見ていたのかがわかる様な気がする内容の作品です。

まぁ、その「侏儒の言葉」の私の頭から離れない一部が以下の文章

瑣事

 人生を幸福にする為には、日常の瑣事(さじ)を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦そよぎ、群雀(むらすずめ)の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。
 人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
 人生を幸福にする為には、日常の瑣事さじに苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦そよぎ、群雀(むらすずめ)の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。

出典:芥川龍之介 侏儒の言葉


瑣事とは

取るに足らないつまらないこと。ささいなこと。小事。

些事/瑣事(さじ)の意味 - goo国語辞書より


…ああ、確かに。

些細な事で苦しむということは些細な事で幸せを感じるということだ。

簡単に幸せになるには、些細なことで幸せになれればいいのだ。

そして簡単に不幸になる。

例えば、毎日体重計に乗るダイエット中の女の子なんていい例?

1キロ体重が増えただけでも墜地獄の苦痛を感じるけれど、1キロ痩せただけでも、天にも昇るような幸せを感じる。

他人にとってはどーでもいい事だけど、本人にとっては大問題。

自分が苦しみを感じる物事で、自分の世界の広さがわかる。

あー今日は雨だ…洗濯物乾かない…嫌だなあ。

地獄の苦痛。

今日はなんていい天気!洗濯物乾く!嬉しいー。

天にも昇る心地。

普通の子育て主婦の世界。

幼稚園の送り迎え。

今日は仲良いママ友と会えなかった…。

苦痛。

今日は仲良いママ友と沢山話せた!

幸福。

明日から月曜日…朝早く起きないと…。

苦痛。

明日は休みだ!朝早く起きなくていい!

幸福。


あーどんどん些細なことで幸せを感じるようになればいい。

その分些細な事で不幸を感じることも増えるけど。

世界一周旅行しないと幸せといえない!

一億円もってないと幸せなんかじゃない!

総理大臣にならないと幸せになれない!

なんて考えだと、そうなるまで、ずーーっと不幸ってことで…

なれなかったら幸せになる事はないってことで。

そう考えたらダイエット中の女の子って意外と幸せなのかもしれない。

少なくとも1キロ減ったら幸せなのだから。

誰も気づかないけど、確かに幸せなんだ。

生きてる世界が小さいって馬鹿にする?

狭いって?

確かに些細な事で幸せを感じるには生きる世界をある意味狭くする事かもしれない。

受験中の大きな夢を追いかける学生に、体重1キロを気にしている暇はきっとない。

些細な事で幸せを感じている暇はきっとない。

でも、些細な事で幸せを感じるようにならないとなかなか幸せになれないと悟ったら…

落ち着いた大人になってしまった、ってことなのかもしれない。

自分の住む世界の範囲を決めてしまったのかもしれない。

幼児の世界は狭い。

だから、些細なことで、笑ったり泣いたりしてる。

シャボン玉を追いかけては笑い、おもちゃの取り合いで泣き叫ぶ。

でもきっと大人よりも幸せなんだろう。

そして大人よりも不幸なんだろう。

狭い世界だって広い世界だっておんなじ世界だ。

人間の世界とありの世界の優劣は誰が決める?

「幸せ」に優劣はある?

どうせ生きるなら、幸せや不幸の多い人生の方が充実してる?

結局「幸せ」は相対的なもので、比較するものがないと成り立たない。

山あり谷ありのボコボコの人生がいいのか。

平らな線のような人生がいいのか。

まだ、未熟な私にはよくわからない。

とにかく、人は心がけ次第でだれでも幸せにはなれるってこと。

いつの日か…朝ご飯が、味噌汁と白ごはんだけで天にも昇るような幸せを感じれるようになりたいものです。

そしたら、毎日簡単に幸せになれるのだから。

不機嫌を撒き散らかす人の分析

思考するヒエヒエです。


最近、イライラ、不機嫌について考えてみた。

自分がイライラ、している時、不機嫌な時はどんな時か。

それは、

「自分の求めている欲望が、満たされない時」である。

という結論にいたった。

世の中には不機嫌な人が沢山いる。

だが、その不機嫌の処理の仕方は人それぞれだ。

今回は「不機嫌を周りに撒き散らす人」について考えていきたい。

不機嫌を周りに撒き散らす人。

それは、

「自分の求めている欲望が満たされない苦しみを、他人にも強要する」

ということになると思う。

はっきりいってこの行動は、自己中心的な行為だ。

自分の問題を他人に持ち込むのだから。

なので、不機嫌を周りに撒き散らす人は、周りの人間を自分に合わすタイプの人間だ。

このタイプが悪いかどうかはわからない。

だが、自分の感情を押し殺して、周りの人間に合わせるタイプにとっては、憎き存在だろう。

内心は羨ましいのだ。

自分が我慢していることを、やっている人間には、憎しみの感情が芽生える。

自分がどうやったって手に入らないものを難なく手に入れてる人に対して、嫉妬という感情が湧き上がらない人間はいるのだろうか?

きっと妬みや、嫉妬の感情が自分の意思と関係なく湧き出る。

これが普通の人間ではないか。

そして、その感情を上手く隠す術をもっているのも、また普通の大人の人間である。

世の中色々な「叩き」がある。

「不倫騒動を起こした人間を必要以上に叩く」

なんて一番分かりやすい例だ。

必要以上に叩いている人はきっと、本音は「不倫がしたい」のだ。

だけど、どうしてもできない。
自分が喉から手がでるほどほしいものを難なく手に入れている(ようにみえる)相手に嫉妬しているのだ。
だから、「叩く」のだ。

人間の欲望は限りない。

食欲

性欲

なんかは生物が共通に持っている欲だ。

さらに人間は

さらに高等な欲をもっていてマズローの欲求五段階説によると

・社会的欲求(親和欲求)
・承認欲求(自我欲求)
・自己実現欲求

なんかがある(下の図参照)

f:id:hiekashi:20170423065923p:plain


なので、


「不機嫌な時は自分の求めている欲望が、満たされない時」

という原則の文(勝手に私がつくった)の「欲望」とは、

食欲のような下等な欲望から、自己実現要求のような上等な欲望まで当てはめることができる。

お腹が減っている時、性欲が満たされない時、大体の人間がイライラするのではないのだろうか。

今の時代、食欲は大体満たされる。
では、性欲はどうか。

満たされないということは、満たす方法をまだ心得ていない、ということだと思う。

大体、思春期の子供がぶつかる壁だろう。

性欲を満たす方法がわからないのだ。

性欲を満たす方法は、きちんといい大人が教えるべきだが、日本はだいぶその教育が遅れていると思う。

悪い大人が考え出したアダルトサイトなどの餌食になる前に子供に性欲の満たし方を教えてあげなくてはならない。

食欲、性欲などの生理的欲求が満たされてこそ、より高次の欲望(自己実現など)の段階に進めるのだから。

適した時期の性教育は本当に大切だと思う。

あと、自分の求める欲望がなかなか手に入らないからといって、他の欲望で代替する場合がある。

例えば「自己実現」が上手くいかないからといって、手軽に手に入る「食欲」のような欲望で代替する場合がある。

「やけ食い」と呼ばれるものだろう。

このような行為は悪いか?

私は人間誰でも上手くいかない時があるので、時々ならそういう代替法は悪くないと思う。

だが、満たされている欲をいつまでも貪り求めるのは心身にとって決して良くない。

欲望を盲目的に「貪る」のは絶対いいことにはならない。

そして、それが常習化するのも良くない。

「自己実現」の欲が満たされないのなら、その欲望を満たすように努力しなければいけないのだ。

なかなか満たされないと逃げたくなる。だけど、目をそらしてはいけないのだ。
目をそらしている限り、問題は永遠に解決しない。

自分が不機嫌な時、自分が本当に満たしたい欲望は何かをしっかり見つめなくてはならない。見極めなければならない。

目をそらすために、違う欲望を代替にし続けたり、不機嫌を無意味に撒き散らし続けてもなんのメリットもない。

堂々巡り。負の連鎖になってしまう。

なので、もし、不機嫌を撒き散らし続ける人が身近にいるのなら、周りの人間が「その人が何の欲望を満たそうともがいているか」を理解することに焦点を当てない限り問題は解決しない。

きっと、それは何かと向き合うことから逃げ続けてきた結果なのだから。

あと、理想を高く設定しすぎる人も、不機嫌になりがちなのだろう。

自分の追い求めるものが高すぎていつでも欲求不満なのだ。

そして、その不機嫌を撒き散らす人というのはある意味自分本位なタイプ。

自分の世界を相手に巻き込む力のあるタイプだ。

ある意味幼い子供と共通する部分がある。

幼い子供は、相手の事を考えれない。
常に自分本位なのだ。
世界の中心は自分なのだ。

だから、自分がやりたい事がうまくできなくてどうしようもない時は、喚き散らす。

自分の不機嫌を相手にも強要しているのだ。相手にどうにかしろ!って訴えているのだ。

でも、世界は自分中心に動いているわけではないと、人生のどこかで知る。

だから、普通の人間は不機嫌を周りに撒き散らさなくなる。

自分が中心だと思っている世界でだけ、不機嫌を撒き散らすのだ。

だから、家で不機嫌を撒き散らす人がいるなら、その人は家では自分が中心だと思っているのだ。

不機嫌を撒き散らかす人。

それは、その人間が中心だと認めていない人にとっては迷惑以外何でもない。

不機嫌を撒き散らし続けている人は、きっと不機嫌の処理がわからずに困っているのだ。

波のように押し寄せて来る「不機嫌」になすすべもなく、困り果てているのかもしれない。

その苦しみから逃れる方法は・・・

自分の立ち位置、状況をしっかり客観的に把握することが、不機嫌から逃れられる最善の方法かもしれない。

そして妥協も。

自分に見合っていない、レベル設定を見直してみる。

今のありのままの自分を認めてあげる。

許してあげる。

そういうことが必要なのかもしれない。

しかし、大体の人間が自分の立ち位置を正確に把握できずにいる。

そして負けず嫌いで見栄っ張りも多い。

私も然り。

道に迷った時、地図上での自分の正確な位置を知るすべを持っていない人は、ただ何処にもいけず、闇雲に彷徨うだけである。

虚しく彷徨い続けたくなければ、自分の地図上での正しい位置と、目的地、そして自分の能力を知ることしかない。


自分という存在の位置をしっかり把握するためには常に知識をつけること、常に謙虚に学ぶ姿勢が大切だ。

世界の日本に住んでいる自分の立場、日本の自分の立場、学校の自分の立場、家族の自分の立場。

今のこの時代に生きている自分という立場。

自分の立ち位置を知り、自分の役割を知る。

その為に歴史を学ぶことはとても大切なのかもしれない。

もちろん、その他の勉強も。

だから人生ずっと学び続ける事は大切なのだ。世の中は無常なのだから。

自分の立ち位置も無常だから。

そして、自分の立ち位置を自分なりに知って納得した上で、自分で納得する役割を見つけてまっとうすることが人生の幸せかもしれない。

最後に・・・大事なことなので、もう一度書いておく。

私は「不機嫌を撒き散らかす人=悪」といいたいのではない。

「悪」な人間もいるだろうが、必ずしもみんながみんな「悪」ではないと思う。

もちろん「弱さ、未熟、幼さ」による場合も確かにあると思う。

もしくは環境の劣悪さが原因かもしれない。

そういう立場での不機嫌の撒き散らしは「悪」に繋がることが多いと思う。

では、「悪」にならない場合とは何か。

本人がもっている「性質」によって、大きい事を成し遂げる場合など。

不機嫌を撒き散らしても許される人。

普通の人では成し遂げれない独創的なものを作る人、中心人物など。

周りを巻き込まないと、作れないもの(多大なエネルギーが必要な価値あるもの)をつくる人。

魅了されるような世界をつくる人。引き込まれるような世界をつくる人とか、きっとそうだ。

きっとアニメ界の巨匠と呼ばれる人とか、クリエイティブな世界にはきっとこういうタイプが多いんじゃないかな、なんて思う。


歴史的に偉人とされている人間の多くは意外と「不機嫌を撒き散らす」人だったのかもしれない。

以上。
「不機嫌を撒き散らす人」の分析でした。

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