悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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嫌いな人は嫌いなままでいい

私は嫌いな人がいる。

「嫌いだ」って認めたくなかった。

嫌いって認めてしまうと、自分が愚かな気がして。

「嫌い」って思う自分は情けなくて、ひどい奴だって。

でも、「嫌い」って素直に認めることは勇気がいるし、大事なことだと思うししょうがないことだと思う。

ただ、「嫌い」だからって傷つけていいかどうかは別次元の話。

人は人を好きにもなるし、嫌いにもなる。

そして、その人を嫌いになる自分をせめなくてもいいんだ。

嫌いになることは自然なこと。

嫌いになる運命だったんだ。

なんでその人を「嫌い」と思うのかを考えていったら大体

「嫉妬」「劣等感」

に繋がるように感じる。

そう、うらやましいんだよ。
どこかで。

自分がもっていないものを当たり前のように持っているから。

当たり前のように持っているくせに、その恩恵に全く気づいていない。

むしろ、雑に扱っていたりする。

そして、無邪気に笑顔で自分に近づいてきたりするんだ。

傍から見たら、「すごくいい人だし、嫌いな意味がわかんない」

っていうだろう。

わかってるんだよ、そんなこと。

だからこそ辛い。

自分の嫌な部分がかき乱されるのが、苦しい。

自分がとてつもなく惨めな生き物のように思える。

そして、自分がこんな苦しい思いをする原因となる「嫌いな人」がもっと憎くなる。

そう、離れていれば、私の生活圏に入ってこなければ、こんな思いにならなくてすむのに…。

だけど、何故かそんな人に限って腐れ縁だったりする。

離れよう、離れようとしても、何故か運命の糸は私を離さない。

あーきっとこれは神様が与えた試練なんだな。

自分の嫌な部分、劣等感から逃げるな、闘え!…っていう?

わかんないけどさ。

もう、嫌いになる運命なんだよ。

それは、時が解決してくれるのを待つしかない…のかもしれない。

例えばさ、すっごい美人な妹、不細工な姉の姉妹がいたとする。

不細工な姉はさ、美人な妹のせいで、より自分の外見に劣等感をもつ。

親戚の誰もが、妹をみて「美人ねー!」って叫ぶのに、その次に隣にいる私をみた…あのなんとも言えない表情。

なんで、私の妹はこんなに美人なのに、私は…なんでこんな惨めな思いをしなくてはいけないの?憎い、妹の存在が憎い…。私の人生に常につきまとって、こんなにも苦しめる「妹」が嫌いだ。

って感じる不細工な姉を誰が責めれる?

え〜あんなに性格も素敵で美人な人を「嫌い」って言うなんて間違ってるよ?
って責めれる?

例え、妹の性格も非の打ち所がないほど良くったってさ、そんなの、姉の「嫌い」っていう気持ちには全く関係ないんだ。

ただ、ただ、あなたの存在が私にとって苦しい。

そう、みんなが納得する理由なんてないんだよ。

そんな理由がないから更に苦しい。

私にしかわからない理由なんだ。

だから、「嫌い」でいる正当性を探すために粗探しに夢中なんだ。

あいつは、実はこんなこと、あんなこと、更にこうこうで、あーだ。

だから、最悪な人間で「嫌い」で当然なんだ。

ってね。

そーなんだ。それは酷いね。
それは嫌いになって当たり前だわ。

でしょー

わかってくれたー?

あははは。

って自分の「相手が嫌いな本当の理由」に蓋をして、見ないようにして安心したいだけなんだよ。

それでは、何も解決しない。

こんな事をしても自分が汚れるだけ。

「嫌い」な本当の理由に向き合ってコンプレックスを克服しない限り。

運命の糸はどこまでも、絡まったままで、離してはくれないんだ。

例えば、不細工な姉の場合、いくら美人な妹が羨ましくて、たまらなくても、妹みたいな外見になるのは無理な話。

欲しくても絶対に手に入らないものなんて沢山ある。

だったら、欲しいものを手放すのも勇気だ。

第一段階はまず、なんで「嫌い」かという本当の理由に向き合うこと。

そして、その原因を克服する事に集中するんだ。

そして、今の自分なら手に入るものを得るためにひたすら努力する。

外見の美醜なんか、とるに足らないちっぽけなことに思えるようにさ。

ベクトルを変える、または世界を変えるんだよ。

でもさ、どうしても、嫌いな人と時を共有しなければならない忍耐の時期もあるわけで。

もう、そういう時は、「無」になるしかない。

大体さ、「嫌い」って感情が強く湧き出るのは「自分」に集中しすぎているせい。

「自分は、自分は」ってなっているんだ。

自己中心な世界に執着している状態。

あいつがいたら自分が苦しいからって。

自分を強く感じすぎている。

スケールが狭くなり過ぎている。

だからね、

どうしても、嫌いな人と一緒にいなくてはいけない状況が続いたら…

「あらゆることに自分を含めない」

そう!もう、あれこれ考えずに
「ボケ〜〜〜〜〜〜〜〜〜」っとしとけばいいんです。

宇宙から地球を眺めているようなスケールでさ。

そしたら、自分というちっぽけな人間が感じる「嫌い」っていう感情なんて、どうでもよくなるからさ、きっと。

ほんと、ここまで出来たら聖人だけどな!(笑)

私はちっぽけな自我の強い愚かな人間だから、まだまだ、「嫌いな人」の運命の糸はしばらく絡まったままだろう。

だけど、「愛しい人」に繋がっていた運命の糸もあった訳だから

「嫌いな人」の運命の糸も、多少は受け入れないと割りに合わないのかもね。

ポジティブに考えると、「嫌いな人」ってさ、自分のコンプレックスを気づかせてくれる存在なんだよね。

もしかしたら、自分次第で、一番自分を成長させてくれる存在なのかもしれない。

だから、嫌いだけど、感謝はするべきなのかな。

その存在を。

きっとね、世界を美しくしているのは、いろいろな色の運命の糸があるからこそなのだから。

子育てって花の水やりに似てる

子育てって、花の水やりにてる気がする。
一日だけやる気で、ばーっと一気に水をやるんじゃダメ。

その花に適した量を、立派に成長することを目指して、

毎日毎日水やりを続けることが大事。

「続ける」ってことが重要なんだね。

水の量も

土の状態も、

その子の今にとって何が最適か

観察しながら、頭を使いながら、

行動を積み重ねていく

きっとそれが大切だし難しい。

一日の水やりは簡単かもしれない。

だけど、いつ花を咲かせるか分からない、その不確実な未来を信じて水をやり続ける、

それって1日の水やりとは比べものにならないくらい大変だと。

でも、

子育てに限らず、「続けること」って難しいし、大切なことなんだね。

信じることができなければ、続けられない。

「継続は力なり」

って言葉の意味を子育てで実感中。

だから自分を信じる心、自己肯定は大事なんだよね。

信じる事が出来なかったら続けることはできない。

その行動は間違っているか、正しいかどうかなんてわからないけど、その努力は子供達の成長に必ず反映している。

子供達にいいか悪いか別にして。

まだまだ、道半ばだけど。

しっかり頭と目をつかって、観察して、判断して、雲を掴むような事の積み重ねかもしれないけれど、

自分を信じて努力し続けたい。

そう静かに思っている、春休みの母なのでした。

自由な風船はうらやましい?

時々すごく自由になりたくなる時がある。

まるで、水の中にできた気泡みたいにふっと、そんな気持ちが生じては。

ふっと、消える。

現実的じゃないって知ってるからね。もう。

自由に誰もが憧れるけれど、やっぱり実際に自由にはなりたがらない。

それは自暴自棄に少なからず繋がるってみんな、なんとなく知っているからかな。

誰もが自由に漠然と憧れている。

誰かさんの結婚式で見た、青空に一斉に飛ばされていくあのカラフルな風船達みたいに。

でも、なんだか、解き放ったその瞬間は心が躍るけれど、

豆粒みたいに遠くに行ってしまった風船を見ていると、なんだか、さみしく、少し孤独な気持ちになる。

一気に

「輝く風船!」から

「哀愁漂う風船」になる。

ああ、あの風船達はこの後、たった一人で遠くまで彷徨って、いつか人知れず割れて、そして海の藻屑になるんだ…って。

ちょっと考えてから思考停止。

そして、一気に興味を失うんだ。

だからね、安全なところにみんな集まってつながれていた方がいいのかもしれない。

自由を夢みるのって、風船達が綺麗な青空にカラフルに解き放たれた一瞬を、

「美しい」って感じているのににてる。

写真だってその瞬間を好んで撮るでしょ?

解き放たれた風船のその後なんて、考えたくもない。

同じ現実なのに。

自由って恐いよ。

ある程度の枠がないと。

一番安全なのは繋がれていること。

でもそれじゃあ嫌だ?

じゃあ、範囲を決める?

犬だって、繋ぎっぱなしは安全だけど可愛そう。

じゃあ家では自由。

でも、不満?

じゃあ、庭を開放してあげよう。

え?それでも不満?

じゃあ、もうどこにでも行っていいよ。

バイバイ〜。

そして、その日からその犬は帰ってこなくなった。

うん、私っていいことしたな♪

…って違うでしょ?

強くないと自由にしたらダメだ。

自分が強くなってこそ、少し上の段階の自由を手に入れれるだけ。

強くないのに、自由になったら…

それは自暴自棄だ。

弱くて向上心がない人間が自由なんて求めちゃだめだ。

自由を求めるなら、

覚悟しないと。

そうしないと、海の藻屑になっちゃう。

弱い風船はあっという間に割れちゃう。

弱い私は、柵の中から遠くを見るしかない。
 
そして、それが安全だし、幸せなことでもある。

より、安全な、快適な、環境を柵の内側につくるんだ。

もう、自分に子供がいる今、自由を求める子犬みたいに、考えなしに家を飛び出るなんてことは、できるはずがないし、したいとも思わない。 

柵の外側のことじゃなく、内側に目を向けないと。

自分の自由ばかりに目を向けたら…
そんなことをしたら何も守れないんだよ。

自由を本当に求めるのは、無知な子供だけってことなんだよな。きっと。

でも、自分に見合った自由を少しずつ求めることは、

いつまでも諦めなくていいことだと思う。

柵をとっぱらうんじゃなくて、

努力して、

柵の範囲を広げていく。

「全くの自由!」

と、

「少しずつ自由を求めていく」

って全く違うことなんだね。

履き違えないようにしないと。

全くの自由がいい!って望むことは、

飼い犬が、家を脱走することを望むのと同じぐらい愚かなこと。

でも、いつまでも繋がれてることを嫌がって、家の中の自由を求めることは、

愚かなことじゃないんだよ。

きっと。

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