思考するヒエヒエです。
最近、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の一部が私の頭の中で渦巻いて離れない。
芥川龍之介の「侏儒の言葉」とは…
『侏儒の言葉』(しゅじゅのことば)は、芥川龍之介の箴言集・文学作品。題名の「侏儒」とは体の小さい人、また知識のない人の蔑称。また俳優の異称でもある。
引用サイト:侏儒の言葉 - Wikipedia
芥川龍之介が、どの様に世の中を見ていたのかがわかる様な気がする内容の作品です。
まぁ、その「侏儒の言葉」の私の頭から離れない一部が以下の文章
瑣事
人生を幸福にする為には、日常の瑣事(さじ)を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦そよぎ、群雀(むらすずめ)の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。
人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
人生を幸福にする為には、日常の瑣事さじに苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦そよぎ、群雀(むらすずめ)の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。出典:芥川龍之介 侏儒の言葉
瑣事とは
取るに足らないつまらないこと。ささいなこと。小事。
…ああ、確かに。
些細な事で苦しむということは些細な事で幸せを感じるということだ。
簡単に幸せになるには、些細なことで幸せになれればいいのだ。
そして簡単に不幸になる。
例えば、毎日体重計に乗るダイエット中の女の子なんていい例?
1キロ体重が増えただけでも墜地獄の苦痛を感じるけれど、1キロ痩せただけでも、天にも昇るような幸せを感じる。
他人にとってはどーでもいい事だけど、本人にとっては大問題。
自分が苦しみを感じる物事で、自分の世界の広さがわかる。
あー今日は雨だ…洗濯物乾かない…嫌だなあ。
地獄の苦痛。
今日はなんていい天気!洗濯物乾く!嬉しいー。
天にも昇る心地。
普通の子育て主婦の世界。
幼稚園の送り迎え。
今日は仲良いママ友と会えなかった…。
苦痛。
今日は仲良いママ友と沢山話せた!
幸福。
明日から月曜日…朝早く起きないと…。
苦痛。
明日は休みだ!朝早く起きなくていい!
幸福。
あーどんどん些細なことで幸せを感じるようになればいい。
その分些細な事で不幸を感じることも増えるけど。
世界一周旅行しないと幸せといえない!
一億円もってないと幸せなんかじゃない!
総理大臣にならないと幸せになれない!
なんて考えだと、そうなるまで、ずーーっと不幸ってことで…
なれなかったら幸せになる事はないってことで。
そう考えたらダイエット中の女の子って意外と幸せなのかもしれない。
少なくとも1キロ減ったら幸せなのだから。
誰も気づかないけど、確かに幸せなんだ。
生きてる世界が小さいって馬鹿にする?
狭いって?
確かに些細な事で幸せを感じるには生きる世界をある意味狭くする事かもしれない。
受験中の大きな夢を追いかける学生に、体重1キロを気にしている暇はきっとない。
些細な事で幸せを感じている暇はきっとない。
でも、些細な事で幸せを感じるようにならないとなかなか幸せになれないと悟ったら…
落ち着いた大人になってしまった、ってことなのかもしれない。
自分の住む世界の範囲を決めてしまったのかもしれない。
幼児の世界は狭い。
だから、些細なことで、笑ったり泣いたりしてる。
シャボン玉を追いかけては笑い、おもちゃの取り合いで泣き叫ぶ。
でもきっと大人よりも幸せなんだろう。
そして大人よりも不幸なんだろう。
狭い世界だって広い世界だっておんなじ世界だ。
人間の世界とありの世界の優劣は誰が決める?
「幸せ」に優劣はある?
どうせ生きるなら、幸せや不幸の多い人生の方が充実してる?
結局「幸せ」は相対的なもので、比較するものがないと成り立たない。
山あり谷ありのボコボコの人生がいいのか。
平らな線のような人生がいいのか。
まだ、未熟な私にはよくわからない。
とにかく、人は心がけ次第でだれでも幸せにはなれるってこと。
いつの日か…朝ご飯が、味噌汁と白ごはんだけで天にも昇るような幸せを感じれるようになりたいものです。
そしたら、毎日簡単に幸せになれるのだから。