悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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夏休みの子育て主婦とアインシュタインの自転車の話

3人の乳幼児育児中、夏休み中のヒエヒエです。

もう、なんか、休み長すぎると訳わからなくなりますね。(いきなりどうした)

なんていうか、やっぱり、人間、閉鎖的な環境に身を置きすぎるとダメになります。

一日中、気がつけば家のキッチンで食事のことばっかりやっている気がします。

いや、キッチンで大したことやってませんよ。

なんていうか、思考回路が単調になりすぎちゃって…平和ボケ?みたいな感じ?ダメですね。

早く、幼稚園始まって欲しいような…
欲しくないような…。

始まるのもなんだか恐いような。


そんな腑抜けのヒエヒエです。

幼稚園の送り迎えだけじゃんっ!
て思われるかもしれませんが、まー幼稚園が始まるだけで、色々な関わりがど!ど!ど!ど!〜って始まるのですよ。
子育て主婦の世界にも色々あるのです。はい…。

夏休みとは、脳の活性具合がもう全く違いますね。

いまのままじゃあ、私の脳は腐ります。はい。

早く動かさなければ。

本当、アインシュタインのこの言葉は的を得ている。

人生とは自転車のようなものだ。
倒れないようにするには走らなければならない。

もーこの言葉は、
アインシュタイン様の驚異的な洞察力と例え話の天才的うまさを見事に表していると思います。

しかもシンプルで美しい。
私の大好きな絶対に忘れたくない言葉です。

人生を生きるには本当にバランスをとること、そして、とり続けること、さらにエネルギーを注ぎ続けることがなんて重要なのだろう、って心から思う。

時々、田舎のおばあちゃんに会いに行くと、せわしなく、ずーーーっと動き続けているおばあちゃんいませんか?(私のおばあちゃんが正にそれ)

「まーまーばあちゃん、そんなに動かずに、やすまれ。」

なんて言っている人いますよね。

さらには

「どうせ後で疲れた疲れた言うんだから、もうばあさん動かれな!余計なことするなや!」

なんて、怒ってしまう人いません?

これ、たしかに他の人から見ると「余計なこと」をしている様に見えるかもしれませんが、おばあちゃんにとっては動き続けることは本当に必要なことなのですよね。

だって、一度止まってしまうとなかなか動けなくなってしまうのですから。

自転車のように、適度なスピードで走り続けている方が楽なのです。バランスがとりやすいのです。

一旦止まってしまったり、スピードが落ちてしまうとバランスが崩れたり、走り続けれなくなってしまう。

起動力って意外とエネルギーが多く必要なのですよね。

0から1と1から2は全く違うってやつ?

だから、動き回っているお年寄りの方を無理に止めるのは間違っていることだと私は思うのですよねー。

まーエネルギー切れの心配もあるので、なんとも言えませんが。

おばあちゃん!自分の体力に見合った行動してください!って感じですが、人間、みんながみんなそんなに器用じゃないですしね。私も人のこと言えません。

まぁ、しゃーない。

あと、何かに、ものすごーーーく集中してその思考をどうにか脳にとどめておきたい、昇華したい、考え続けたい時、意味もなく歩き回ってしまうやつ(私だけ?)

何事も上手くいっているときは「継続し続けて止まらないこと」が重要なのですよね。

止まってしまうと、もういい状態のモードに届かなくなってしまうのですよ。

だからね、人生何もかも上手くいっているようにみえる世に言う「成功者」って本当にすごいですよ。

すごいスピードでバランスを保ちながら走り続けるしかないのですから。

止まったり、こけたりなんかしたら、もう、どんどん追い抜かされていってしまうか、再起不能になってしまう。

何事も身の丈に合った事をするものですね(負け犬根性っス)

・・・と、なんだかアチコチと話が逸れてしまいましたが、

何が言いたかったかというと・・・

そうそう!だから私は

夏休みが終わって早く平常運転モードに戻りたい!って話(なんとか、まとまった汗)

早く助走をつけてスピードを上げてスイスイと快適に走り出したい!

まーその為には今体調をしっかり整えないといけないのですがね( ̄∀ ̄)

スタミナをつけて!
規則正しい生活!

…まずは、子供達の早寝早起きをどうにかしないと…と少し焦るヒエヒエなのでした。

夜回り先生が心配。甘え過ぎた結果?

夏休みももうすぐ終わりで、なんだかやる気のでないヒエヒエです。

夏休みっていっても長女が家にいるだけなのですが(3歳児と1歳児はいつも一緒)

そんな私が今、一番気になっているニュースは

こちら→
headlines.yahoo.co.jp



「夜回り先生」の水谷修先生が最近意味深な言葉を水谷修公式サイトに書かれていること。

私は昔テレビで水谷修先生の熱い熱い講演の様子をたまたま観て、心が震えたのをまだ覚えています。

あーこんな子供のことをしっかり見つめて考えてくれる先生がいるんだ。助けを求めれば、真剣に親身になってくれる大人って存在するんだ!

…と、当時学生だった私の心に何らかの暖かいエネルギーを注いでくれたのです。

遠い昔の話です。

なので「Yahoo!ニュース」で今回の記事の見出しを見たとき、迷わず見ました。

そして、水谷修先生の公式ホームページに行き、先生の日常が綴られているブログをできる限り遡って拝読しました。


そして、私は先生の精力的な身をすり減らすような毎日を知りました。

物凄いエネルギーを毎日使って、さらに循環させているのだと…。

あーこんなにも、周りの人々に影響しているエネルギッシュな人間が確かに存在するんだ、と。

ただ日常を送るだけで時々グッタリしてしまう私とは大違いだと、先生の超人っぷりにただただ驚きました。

ここからは私のちょっとアクの強い個人的な考え方。

エネルギーって「陰と陽」があると思うんですよ。

私たちはエネルギーを使って生きてる。

水谷先生はきっとそのエネルギーの使い方が超人並みに上手なのでしょう。
そしてキャパも大きい。

私なんて常にエネルギーの流れが遅く滞ってしまって汚れが留まってしまうような状態なのに、先生はエネルギーの循環がとても速い。

陽のエネルギーを綺麗な水とするなら、きっと、水谷先生は常に美しく保つことのできる水の循環が速い湖のようだったのだろう。

キャパも大きい。

綺麗な大きな水の湖。

だから少々な澱んだ水が入ってきても浄化する能力がある。

淀んだ水は濁る。

自分の中の水を循環させる方法を心得ていない無知な子供達。

濁って汚い藻だらけになって…。

更に流れはなくなり藻だらけの池となり、機能不全。

そしてさらにそこに自分たちの汚い水を入れる大人たち。

どうしようもなく、苦しむ子供達。

その汚い池の子供達を救っていたのが水谷先生。

水谷先生はきっと、本当に美しい大きい湖のようだったのだろう。

だから、他の濁って苦しんでいる子供達の池からゴミを自分に取り込み綺麗にすることができた。

そして、水を循環させる仕方も教えてあげた。

自分が綺麗な湖だったからこそ、沢山の汚れた水を受け入れ、助けることができた。

水谷先生もブログでおっしゃっていた。

自分が幸せにならないと、他人を幸せにすることなんて出来ない。

その通りだ。

だけど、みんなそのきれいな湖に甘え過ぎた。

どんどん甘えて綺麗な湖に自分たちの汚水をどんどん垂れ流し、遂に綺麗な湖を汚く淀む程にしてしまった。

私は何だか昔は綺麗だった貴重な自然が破壊されていくような、そんな悲しさと似た感情を抱いています。

それだけ現代の汚れはどうしようもなくひどくなりつつあるのでしょうか。

私も3人の子供を持つ親としてしっかり現代の子供達のもつ闇について学ばなければならないと思いました。

水谷先生のブログで報告されていた(2019年7月5日)5日間書き続けて完成させたらしい大作の一冊の本。

10月には出版できるらしいですが。

是非、というか、絶対に読みたいです。

今こそ、大人たちが水谷先生の取り組まれていた事にもっともっと注目する時なのかもしれません。

あと、最後に

水谷先生のホームページ、閉鎖すると先生はおっしゃっていますが、個人的にはブログだけは消さないで欲しいと強く願います。

本当に素敵な言葉が沢山でした。

先生の考え方、哲学、経験を教えてくれるブログは本当に貴重です。

私は陰ながら水谷修先生を心から応援しようと思います。

実家に帰ったら何故かどっと疲れたって話

どうも、ヒエヒエです。

あー帰省したら、なんだかどっと疲れました。

客観的に見たら普段よりずっと楽してるくせに、やっぱり、ストレスがたまっているのですね。

なんだか、離れていたら気にならないことが、近くにいることで気になり出しちゃうのです。

で、どうでもいいことをうじうじ考えて堂々巡り。

この前もこんな記事書いたなぁ。

www.hiekashi.com

相当ですね(笑)

・・・もうね

B・ラッセルの幸福論で書いてあったことは本当に正論(最近はまっている本です)

大半の男も女も自分の考えをコントロールすることにかけてはまことに拙劣である。
つまり、彼に言わせれば、彼らは心配事について何一つ行動を起こし得ないような場合にも、なお心配事についてあれこれ考えることをやめないのだ。男たちは彼らの仕事のうえの心配事を寝床にまでも持ち込む。そして翌日の問題に取り組むための新鮮な力を獲得せねばならない夜の数時間を、彼らは何度も何度も問題のうえを行きつもどりつする、そのくせ、その時には彼らは何一つそれについて行動することもできないのに。つまり、彼らは翌日の行動を健全な軌道にのせるような仕方においてではなく、むしろ不眠症患者のやっかいなもの思いの特徴である半ば狂乱の仕方において、あれこれ考えるだけなのだ。この真夜中の狂乱のうちの幾分かは翌朝の彼らにも着いて離れない。それは彼らの判断を曇らせ、彼らの気分を汚毒し、あらゆる障害に対してひどく癇癪を起こさせる。


引用:B・ラッセル著「幸福論」(掘 秀彦 訳)

もう、これ私だわ。

この愚かな行いの対処法についてB・ラッセルさんは次の様にいっております。

賢明な人間は、それを考えることのうちに何か目的がある場合にのみ、彼の問題について考える。
(中略)
困難なあるいはまた心配せずにおれないような決断をどうしても下すことが必要な場合、そのためのいっさいの材料が利用可能となるや否や、諸君はその問題を最もよく考え抜き、そして決断をくだすがいい。
いったん決断を下した暁には、何か新しい事実をそれについて諸君が知った場合は別、さもなければ、この決断を決して修正するな。優柔不断ほど疲れるものはないし、またこれほど無益ものもないのだから。


引用:B・ラッセル著「幸福論」(掘 秀彦 訳)


とことん考えて考え抜いて自分の中で落とし所をみつけて、対処法をみつけて、あとはすっぱりと考えるのをやめる。

その対処法に徹する方に集中する。

だけどさ・・・
なかなかその「落とし所」にたどり着けないのですよ。

何を最優先するか。

優先順位をつけて、上位の為なら下位のものはある程度諦めるしかない。

そう、

諦めて耐えるしかないのですよ。

忍耐。

忍耐。

だけど、やっぱり私は欲張りで、

あれも諦められない。
これも諦められない。

だから、無限のループに苦しむ。

本当に欲深い人間。

諦めればいいのに、無駄にどっちもどうにか獲得できないかと、うだうだ考える。

そして疲労困憊になる。

B・ラッセルさんが言っている不幸を招く人間っていうのは正に私のような習性の持ち主だ。

僻み、妬み、恨み辛み。

心の奥底にある嫉妬。

そんな感情に溺れると、どんどん苦しく不幸になっていくことは頭では分かっているのに。

本当に、人生を賢く生きるのって難しいし、学び、努力し続けないといけないなって実感する。

ある人を「嫌い」と思う感情って本当に無理に押し殺すもの?

「嫌い嫌い」っていう止めどなく溢れてくる感情の穴を塞ごうとして、私は疲れ果ててしまう。

そして、「嫌い」と思ってしまう自分に対する罪悪感。

感謝しなければいけないのに。

感謝するべきなのに。

・・・と、一生懸命穴を塞ごうとするけど、やっぱり水圧に負けて、止めどなく溢れてしまう「嫌い」という感情。

自分でもよくわかりません。

本当に人間の感情って単純じゃないんだなって思います。

本当に何だかんだいって、自分の事は、最終的には自分が解決するしかないのです。

あとは「時間の経過」が解決してくれる事もあるかもですが。

大体は自分次第。

そう、全ての不幸に感じる原因は周りではなく「自分」なのです。

周りはヒントは与えてくれるかもしれないけれど、「解決」はしてくれないのです。

そういう意味では、人間はどこまでも
「孤独」です。

・・・にしても、ラッセルの「幸福論」は素晴らしい。

今回私が手に取ったラッセルの「幸福論」


こちらの翻訳は結構読みにくく感じましたが・・・。
ですが、ラッセルの「幸福論」自体はとても価値ある著書には変わりません。
是非、「何で私は幸せを感じれないんだ」と漠然とした不安を持っている方は読んでみてください。
素敵なヒントを与えてくれるはずです。


私も、こちらの著書を読んで、目から鱗が落ちる考えを沢山得ることができました。

どうしても、とっつきにくく感じる方は「100分で名著」の「ラッセル・幸福論」を観るといいです(私もこちらの番組で知りました)

過去の番組はこちらで有料(一話108円)で閲覧できるみたいです。

www.nhk-ondemand.jp



では☆

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