悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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欲張りだから迷うんだよね

欲張りだから迷うんだよね。

「優柔不断」って欲張りで慎重な性格のあらわれ?

因みに私はかなりの優柔不断。

レストランとかいってもずっとメニューにかじりついて最後まで「やっぱり…やっぱり」っていうタイプ。

優柔不断って、すべてがよく見えちゃって、「あれも捨てがたい、これも捨てがたい」って全てがよく見えちゃって決めれないんだよね。

で、注文して、他人の選んだメニューの方が美味しそうに見えて

「やっぱりあっちがよかったかも」

なんて心の中で呟いちゃったりする。

レストランのメニューのこの苦悩

色んな食べ物の美味しさを知っていて、食欲が強くて、欲張りな人の陥る苦悩。

偏食さんや、食欲が強くない人はきっとあまり迷わない。

食の楽しみを知ってるからこそ迷う。

メニューの種類が多すぎるのも「迷う」原因の一つかも。

選択肢が多すぎるっていうのも迷いを深めるんだよね。きっと。

私のママ友に「迷い」でとても苦しんでる人がいた。

子育ての時間もしっかり確保したい
自分自身も働きたい
あれもしたい、これもしたい…

あれもこれも欲しい。
どれも手放せないから苦しい。

とても苦しそうだった。

きっとそのお母さんはとても欲張りだ。

でも、欲張りなのは悪くないことだ。

ただ、求めるその「欲」を思うように手に入れれないから苦しい。

やり方が間違っているか、そもそも無理ゲーなのか。

無理ゲーなら、スパっと諦めるしか、ないんだけど…。

頑張り屋、粘り強い性格が仇になるのかも。

絶対取れないように出来てるクレーンゲームに似ている。

自分が欲しいと思っている物程、取れなければ取れないほど、粘り強いほど、諦めない性格な程、執着して苦悩する。

「絶対に取れない」って分かっていればスパっと諦めれるんだけど。

そのクレーンゲームのいやらしいところは「取れそうに見える」ってこと。

それを見極める力がないと、無駄に苦悩するのかもね。

今の世の中、
そんなクレーンゲームみたいなのが沢山ありすぎて、苦悩する人が多いのかなぁ。

選択肢が多すぎる、魅力的なものが多すぎる。

食べ物が不味くて、メニューが一つしかないレストランだったら、そんな苦悩も味わう事もないのに…。

…それも何か違う気が。

そういえば、誰かに言われた言葉

「迷うのはいいけど、苦しむんじゃなくて、楽しく迷ったらいいんじゃない?」

そういえば、過去にも「欲望」についての記事を書いたけど。
www.hiekashi.com

欲望があるのは悪い事じゃない。
だから迷うことも悪い事じゃない。

よくないことは、「迷って苦悩」することなんだね。

これからは、レストランのメニューは楽しんで迷おう。

今生きてるって凄いことだよ。

「生きてるだけで丸儲け」

この何処かで聞いた言葉がやけに頭に残ってる。

「今生きてる」って実はすごいことだなって。

今の世界を動かしているのは今生きている私たちに他ならないって。

確かに、名だたる今は亡き偉人達は輝いてみえる。

ピカソ?夏目漱石?アインシュタイン?

etc.

確かに彼らの残した偉業は、今生きている人間に影響を与えている。

確かに彼らの力は偉大だと。
インスピレーションを多くの人間に与えたり、心の琴線に触れたり。

でも、結局は、

今生きている私たちが重要なんだと。

今生きている私たちがこの世界をつくっているんだと。

今の世界に変化を与えれるのは今生きている私たちだけだ。

いくら凄い絵でも。
いくら凄い文字の羅列も。
いくら凄い数式の羅列も。

それだけでは何もできない。

何も生み出さない。

何も世界に影響を与えることはできない。

「今生きている」

これだけで、本当はものすごいことなんだ。

例え、世界を変えるようなすごい発見をしなくたって、

例え、ノーベル賞をとらなくったって、

形に残るものを残さなくたって。

今生きてるってだけ。

それだけで、世界を変える一因になっているんだって。

いや、寧ろ「今生きてる」ってことだけが条件だって。

「今の世界を変えれる」ってことの。

もしかしたら、たまたま、電車で優しく誰かに席を譲ったりしただけで、その人の人生を変えるきっかけになる可能性だって0ではない。

小さいキッカケでも、世界を変えている。

ドミノ倒しだって、きっかけは最初のちょっとなんだ。

だから、今生きている私達はもっともっと、自分という存在の重要性に気づくべきなんだ。

今生きてるってことの重要性に。

確かに亡くなった人の「思い」は
生きている私達のエネルギーにはなる。

だけど、世界に実際に変化を与えているのは生きている私達に他ならない。

だからって「亡き者」の存在をないがしろにしろって言っているつもりは毛頭ない。

「亡き者」は生きている者の一部となって一緒に世界をつくっている。

偉人達はその「一部」がとてつもなく広域で大きいってだけのことで、それ自身だけでは何もできない。

実際に世界に働きかけれるのは生きている私達なんだ。

だけど「亡き者」も間接的には今の世界に影響していることになる。

だから、生きている私たちの役割は、『自分が理解できる「亡き者」の努力を有意義な形にして今の世界を動かす事』だと思う。

なんてカッコつけた表現をしたけども、エネルギーをかけたものは結局は計らずともなんらかの形でいつかは世界を変えるってこと。

その「いつか」は今生きている私達にかかっているけども。

亡き者の努力を世界に還元する時期は生きているものにかかっている。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が広く知れ渡ったのも、それ自身が持っていた力、それを理解していた周りの人間の努力の結果だ。

自分の情熱の赴くままに、今一瞬一瞬を一生懸命生きる。

自分の役割を見つけてそれに心血を注ぐ。

それが難なくできたらいいのになって思う。

今生きている人類が一瞬で消え去って

名画や名作、数式、貴重な論文だけが残っても…

それだけでは何も為さない。

それは人類の歴史の終了。

今生きている私たちが今現在歴史をつくっている。

今の世界は今生きている私達のみが動かせる。

文章を書くことはきっと裏切らない。

文章はきっと裏切らない。

自分の表現したい何かをきっと表現できる。

楽器は裏切った。

いとも簡単に私の理想とする場所から遠ざけた。

それまでの努力をいとも簡単に打ち砕いた。

でも、きっと文章なら私を裏切らない。

きっと、私の思い描いている世界を表現できるはず…。

地道に努力さえすれば、きっと…。

もちろん簡単じゃないのは知ってる。

でも、きっと私に微笑みかけてくれるはずだ。

本当に「誰かの心を揺さぶる何かを生み出す」って難儀なことだ。

その対象が、広範囲になればなるほど、とてつもなく難しい。

まー狭く深くか、広く浅くか…

広く深くは…超人の域かもだけど。

どんな人間をも心を揺さぶる「もの」ってあるのだろうか。

音楽?文章?絵画?

でも、耳が聞こえなかったら?文字がわからなかったら?目が見えなかったら?

全人類が共通する心を揺さぶる普遍的なものは?

生理的なものは抜きにしてさ。

そんなのあるはずない。
全人類が信じる宗教がないように。

だから、わかる人にだけ届くようにするしかない。

きっと、私が全力で自分の生命を振り絞って、表現したとしても、きっと伝わる対象の人間はほんの一部だろう。

それでも私はいつか、一部の人にだけでも、わたしの感じている世界が共有できることを夢見てる。

私というちっぽけな存在が新しい何かを創造できたらなんて素敵なんだろうって思う。

「ビューティフルマインド」って映画で心に残った台詞。

「こんな世界を造るなんて、神様はきっと物凄い芸術家ね」

…だっけ。詳細わすれた。

「神様は芸術家」この例えは言い得て妙だと感じる。

私は身の程知らず過ぎるけれど、神様の足元の微生物にも及ばないだろうけれど、

芸術家に憧れている。

もし本当に宇宙をつくった超越した存在がいるならば、きっと芸術家だ。

こんな複雑で美しい世界を創造したのだから間違いない。

なんだか、自由に文章を書いてると、どうしてもポエマーみたいな感じになってしまう。

なんでだろう。

自分に酔ってる?

って馬鹿にされたり非難されるのを恐れるのは学生時代だけで充分。

そんなことを恐れてたら、何も出来ないって遅まきながらでも気づいてよかった。

非難を恐れてたら本当に何もできないのだよ。これ、大人になって学んだ一番の収穫かも。

イソップ物語の「すっぱいぶどう」のキツネみたいな人がなんて多いことか。

手に入らないから、「あのぶどうは酸っぱい」って自分を騙さないとやってられない。

本当は喉から手が出るほど欲しいのに。

「あのぶどうは酸っぱい」「酸っぱい」「酸っぱい!」

そんな主張を必死でしている人は内心…

「あのぶどうが欲しくてたまらない」

のだから、

わざわざ、その言葉を真に受けてうろたえてたら、相手の思う壺。

ブログへの悪意のあるコメントなんてほぼ、この感情だよ。まったく。

この感情を表す用語って「ルサンチマン」だっけ。

本当に足を引っ張る人たちの鴨に自らなってはダメダメ。
ある種のゾンビなのだから。

上へ上へ行く為の第一関門って
きっと、「ルサンチマン」によって足を引っ張る輩を振り払って突き抜ける事だと思う。

きっと何処の世界にもあることなんだろうけどさ。

…と、いつものように、脳内をフラフラと浮遊散歩していると、ダラダラと長くなってしまった。

ちょっとここでタイトルについてつっこんでみる。

「文章を書くことはきっと裏切らない」

だけど、細かく追求すると

「『文章を書くことはきっと裏切らない』かどうかは、分からないけと、努力を積み重ねて、時間をかければ少しずつなら上へいけると、私は信じる。一発勝負の楽器だと、いくら吐きそうなぐらい努力しても本番で一瞬で崩れ去ることもあるから。」

みたいな感じ。

過去に楽器で何があったんだよっていうツッコミはさておき、

私はこの一年も

文章の可能性を信じて書いていこうと思います。

では、脳内浮遊散歩にお付き合いいただきありがとうございました。

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