悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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創造する者は孤独な冒険者なんだ

創造する者になりたい。
創作者?まあ、要するに、新しく何かを創り出す人ってこと。

でも、創造する者は孤独なんだ。

創造者に憧れている。

でも、創造するには、私は弱すぎる。

創造者はきっと、他人の独創的な考えなんて、出来れば触れたくない。

何故なら、それを見た瞬間、自分の独創的な流れが、揺らいでしまうから。

無意識に揺らいでしまうから。

強烈な他人の独創的なものの引力に引きよせられそうになるから。

自分で、木の生い茂る未踏の場所を進みたい、切り拓きたいけど、近くにすごく素敵な獣道があったらそこを進んでしまいたくなるでしょ?

その道は皆んながたくさん通っているから、快適に歩き進めれるのだから。

確かに、すでに道ができている道の方が歩くのは楽だし、楽しいかもしれない。

しかもある程度の目的場所に辿り着ける事は保証されている。

だけどね、創造者は、誰もまだ見たことのない、景色を求めて道なき道をずんずん歩いて行かないといけないんだ。

楽しそうに快適な整備されている道を歩いている人々を尻目に、誘惑なんかに引き寄せられないように、雑草の生い茂る、前の見えない自分だけの道なき道を突き進まないといけないんだ。

しかもね、たとえ素敵な場所に自分はたどり着けたとしても、その場所に自分以外の人が辿り着けるように道を整備しないといけない。沢山道しるべの看板を準備しないといけない。人を勧誘しないといけない。

素敵な場所にやっとの思いで、たどり着いても、まず、そこに違う誰かを連れて行って、その素晴らしさを強烈に共感して感動してもらわないといけない。

その人が、「こんなにも素晴らしい場所には、より多くの人に来てもらわないと、人類の宝の損失だ!よし!私が全力で協力する!」
みたいな、頼もしい真の心の友がいてこそ、その人は偉大な創造者になれるんじゃないかな。

例えば、宮崎駿さんを想像すれば分かりやすい。

宮崎駿さんは、自分で誰もたどり着いた事のない世界に辿り着いた。

だけど、その場所になかなか自分以外の人を連れていけなかった。

だけど、徐々にその世界の美しさに共感してくれる仲間が増えていった。

そして、その仲間のうちの、強力な助っ人の一人が鈴木敏夫さんだ。

そして、その世界の美しさに共感した鈴木敏夫さんは、その世界への道の整備を徹底して行い、集客を行い、日本一の観光スポットのような大盛況の場所にしたんだ。

きっと、宮崎駿さんは、世間で考えられているより、ずーーっと、孤独な作業を人知れずし続けて、その世界にたどり着いた。

もしかしたら、未踏の道を一人で突き進んでいる時に、目的地を見失って、一人途方に暮れてその場に座り込むこともあったのかもしれない。もう身動きが取れなくて命の危機もあったのかもしれない。

それは、月の綺麗な孤独なすすき林の中のようだったかもしれない。

きっと、偉大な創造者は孤独な偉大な冒険家だ。

「あいつ、なんで、あんな変な場所を一生懸命歩こうとしてんだー!あっはっは〜!」みたいに後ろ指を指さされて笑われても、一切聞く耳を持たずに、黙々と、自分に集中できる図太さがないといけない。

創造者って孤独だ。

だけど、自分で道を切り拓ける。

他人に依存しなくて済む。

だから、他人の準備したものに対して、振り回されなくてすむ。

自分主体で人生を謳歌できる。

創造者はきっと自由を愛している人だ。

私は自由を愛したい。

だから、創造者に今だに憧れている。

だけど、今の私にはそのために、筆もなければ、楽器もない。手段がない。そして、未踏の地を突き進み続ける度胸もなければ、道を整備する体力もないし、時間もない。

だからって他の人達の作った道を笑顔で歩くことも出来ない。

そのくせ、自分の開拓してきた道を歩き進めるのを中断して、しょっちゅう、忘れて違う場所であぐらをかいておやつを食べている怠け者だ。要するにどうしようもない奴。

でも、私は今のところ、まだ、突き進む熱意はある。ギラギラ光るものが心にある。だから、定期的に自分の進むべき道の前になんとかもどってこれる。

だけど、いつか・・・その心の熱も幻のように無くなってしまい、突き進んできた道も放置されて、まるで元々無かったかのように、私が歩いてきた道も、新しい雑草が生い茂るのだろうか。

今はまだ、こうなってしまうことが恐いって感情があるってことだけが、私の希望かもしれない。

最近ニーチェの『ツァラトゥストラ(上)』を読んでいて、ニーチェは創造する人間の苦悩を味わい尽くしたってことが痛いほど伝わってくる。

きょうもまだ、たったひとりで君は、多くの人間のことで悩んでいる。きょうもまだ、君は、勇気と希望をしっかりもっている。
けれどそのうち君は、孤独にうんざりするだろう。そのうちプライドが背中を丸め、勇気が歯ぎしりするだろう。そのうち君は、「ああ、ひとりぼっちなんだ!」と叫ぶだろう。
そのうち君は、自分の高さを見ようとしなくなり、自分の低さをあまりにも近くで見るだろう。君の気高ささえもが幽霊みたいに、君を怖がらせるだろう。そのうち君は、「全部まちがってるんだ!」と叫ぶだろう。
孤独な人間を殺そうとする感情がある。殺すのに感情が失敗したら、そう、感情のほうに死んでもらうしかない!しかし君は、感情を殺す人間になれるかな?

(引用:『ツァラトゥストラ(上)』「創造する者の道ついて」p.127)

なんとなく私とニーチェさんがみえていた世界は同じものだと妄想せずにはいられない。

感情を殺す人間にはなりたいような・・・なったら色んな事が破滅しそうなような・・・。

私はきっと破滅は選べない。

そして、きっとそれが一般的には正解だ。









子どもにとってぬいぐるみは私の想像より遥かに大切だった

最近防災リュックを購入して、子供と一緒に中身を確認しながら、災害が起こった時の話をしていた。

「もし、火事があったら、このバッグを背負ってすぐに逃げるのよ!兎に角逃げるのよ!」と言った。

何で火事の場合の話になったのかは、忘れたけれど。

「えー!!このぬいぐるみさん達は?どうするの?!」

と、悲痛な顔をして大量のぬいぐるみ達の山を指さした。

あまりの悲痛な顔に、こっちがびっくらこいた。

「そんなの、また買ってあげるから、ほっといて行くの!ぬいぐるみはまた買えても、命はもどらないんだからね!」

と言った、その日の就寝前。
長女と次女のパンパンに膨らんだリュックと、パンパンの手提げカバンが複数個、キッチンの床にころがっていて、つまずいたりして、邪魔でたまらなくてイライラしながら

「なんで、こんなところに、こんな物を置いているの!」

と怒ったら、子供達が

「その中に、私たちのぬいぐるみ達が全て入ってるの!これで、火事がおきても、すぐに一緒に家から出れるでしょ?こんな風に」

と、パンパンでボコボコのリュックを背負ったり、はち切れそうな手提げを両手に持ったりと、レクチャーしながらニコニコしながら言われた。

何やら二人でごそごそと一生懸命していたのは、コレか。

どうやら、ぬいぐるみ達は子供達にとって、代わりのきかないかけがえのない物らしい。

同じのを買えばいいじゃん!…って言葉を放った私は、いつのまにかうす汚れた大人の世界にドップリとつかっていて、子どもの世界が全く見えなくなっていたらしい。

自分が完全な冷たい大人の言動を自然にしてしまったことに、自分で自分にがっかりした。

いや…でも流石にあの量のぬいぐるみは持って逃げるの無理だと思うよ。まぁ、そこは問題じゃないけどさ。

あとから冷静に考えたら、火事になったら防災リュックでも、背負ってる場合じゃないよな…とぼんやり一人で心の中で笑ったのでした。

私の子どもが好きってだけの詩

私の子どもが好き。

さっきまで、なかなか寝なくてイライラしてたけど。

私の子どもが好き。

寝かしつけの時、頭とかぶつけてきて凄くイラッとしたけど。

私の子どもが好き。

車の中でいつも自分の好きな音楽が聴けなくて、いつもアンパンマンの歌になって嫌だけど。

私の子どもが好き。

自分がどんどん子育てしかできなくなっている気がして悲しいけれど。

私の子どもが好き。

一人の時間がたくさん欲しくてたまらない時もあるけど。

やっぱり、私の子どもが好き。

もう、子どもがいない私の人生は考えれなくて、子どもに私の膨大なエネルギーを費やした。

そして、私は何にもなれなかった。

私の子どもが好き。

・・・何にもなれなかった?

違う。

私は元々何にもなれなかった。

だけど、私は子どものお陰で「母親」になれた。

私の子どもが好き。

もう・・・少しでも、子どもが事故か何かでいなくなることを想像しただけで、私は暗いブラックホールに吸い込まれそうだ。

私の子どもが好きだ。

寝顔を見たら涙が出そうになる。

時々私は子どもが煩わしく、「嫌い」になる。

私の子どもが好き。

きっと、明日も「好き」という海に「嫌い」という雨が降る。

時々は嵐のような雨が降るかもしれないけれど。

私の子どもが好き。

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