悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

【スポンサーリンク】

孤独な人は趣味を楽しめない?

趣味って何?

いきなりな問いかけですみません。
でも、なんだかよくわからなくなるのです。

絵を描くことが趣味。
手芸をすることが趣味。
文章を書くことが趣味。
本を読むことが趣味。

でもさ、私は昔から、「趣味」というものが何だか苦手だった。

何かに夢中になれば、一人ぼっちの世界に深くずぶりずぶりと沈んでいくようで怖かった。

本を読むのだって、手芸をするのだって、たった一人ですることはとてもとても続けれなかった。

しばらくは続く。だけどすぐにやめた。

孤独に勝てなかった。

要するに私は昔、孤独だった。共有できる人がいなかった。

「趣味=楽しい」になるのは、相手がいてこそな気がする。

本を読んで、その内容をどこかしらで共有できたら楽しい。

手芸で何かを制作して、誰かにみてもらったり、プレゼントしたら楽しい。

文章だって、一生懸命書いたら、やっぱり誰かに読んでもらいたい。

やっぱり、人は孤独には耐えれない。
すごく強いハートを持っていないと。自分は孤独じゃないという自信がないと、趣味にたった一人で没頭なんてできない。

寧ろ、たった一人で、趣味に没頭している人なんて存在するのか?

いや、「私は一人で釣りをするのが趣味です」っていう人もさ、まさか誰にも話さず、誰とも関わらずにしている人はいないよね?

たまたま横にいた釣りをしている人とかと話したりはするでしょ?

絵だって同じだ。

絵を描く時は一人だ。

だけど、一生懸命絵を描いて、誰かに見てもらいたくない人なんている?

趣味は、誰かと何かを共有したい気持ちの表れな気もする。

自分だけが抱いている感情を文字に表して、自分以外の人に少しでも伝えたい。できたら共感して欲しい。

自分が感じている世界を絵に表して、他の人にも感じて欲しい。

自分が作り出したものを、自分以外の人と共有したい。

自分という閉鎖した世界で完結するだけなんて、虚しい。

自分という枠からでて、他人と繋がりたい。

私はブログが趣味だと今のところ思っている。

やっと、大人になって孤独に強くなったから「趣味」というものを心から楽しめる気がする。

ブログで、本来なら私の中だけで渦巻いていた色々な感情を、吐露している。

それは結構爽快だ。

私しか知らない、私の頭の中の事を、ブログという手段を通じて、私以外の人の頭の中にスルリと入ることができる。

友達でも、家族でも、夫でもない他人の頭の中に、入り込むことが出来るんだ。

それはね…私にとっては、孤独を癒してくれることなんだよね。

もちろん、ブログを読んで「この人何言ってんだ?」みたいな人もいると思う。

だけど、たった一人でも、「なんだか、この人の言ってること分かる気がする…」って感じてくれたらこれ以上嬉しい事はない。

でも、ブログが「趣味」というのは、読んでくれる人がいてこそ成り立つんだ。

だからね、私の拙いブログを読んでくれている読者さんには本当に感謝しています。

読んでくれる人がいるおかげで今のところブログが趣味として成り立っている。

読んでくれる人がいなかったら、趣味としてブログをやっている意味がない。

家でこっそりノートに日記を書いているのと変わらない。

色々なことを共有したいんだよ。

社交辞令とかめんどくさいこと抜きで。

まぁ、ブログも孤独に強くないと続けれないよなぁ…とは思う。

結局は、何事も楽しむには「孤独じゃない事」が条件なんだよな。

一人旅を楽しめる人ってさ、きっとさ、「孤独じゃない人」なんだよね。

不安定で孤独で自信がない人は保身に必死で何事も楽しむ余裕なんてないんだ。

何事も楽しむ段階にいくには強くならなくちゃいけないんだなぁ。きっと。

人生を楽しめる余裕のある人になりたい…

最後にそう思ったヒエヒエでした。

人間って何で刺激的な事が好きなんだ?

人間って刺激的な事が好きだよね。

うん、色々な例があると思うけど、例えば、味覚。

子育てしてるとよくわかるんだけど、一度味が濃いものを食べちゃうと後戻りできないんだよね。

もうね、薄い味じゃあ物足りなくなるの。

刺激的な味の虜。

幼児に初めてチョコなんか食べさせた日には、きっと脳がビックリするよね。

なんだ?!この美味いものは!

脳が大喜び。

もう、今まで美味しい美味しいと食べてた味が物足りなく感じてしまう。

でもさ、一度刺激の強い味を知っちゃうと、味覚が鈍感になってしまうのではないかな。

薄味のバリエーションを知る機会が失われてしまう気がする。

ある意味幸せを感じる機会を奪ってしまう。

人間は段階を踏んで成長するのが大切なのだよ。きっと。

いきなりトップレベルの快楽を知ってしまうと、今までコップぐらいの計量カップがさ、いきなりバケツぐらいの容量になっちゃうって感じ。

もう、今まで満足していた量じゃあ、全然満たされないの。

今までだったらすぐに満たされてたのに、もう容量がバケツになっちゃったら、何?こんだけ?全然足りない。ってなっちゃうわけ。

その容量を大きくし続けることは幸せなのか?

一生チョコを知らないコップぐらいの容量の人生が果たして幸せなのか?

それはわからない。

だって、もう私たちは周りにチョコが溢れている世界にいるのだから。

チョコのない世界にはもどれない。

チョコぐらいなら、継続的に入手できるし、健康にも大した害がないからいいかもしれない。

ただ、それが継続的に入手するのが困難で、健康に悪影響だったら…。

不幸になるかもしれない。

極端な例が麻薬。

麻薬なんてきっといっきに容量をプールぐらいにしてしまうのではなかろうか?

もう、今まで「幸せ」と感じていた事柄があまりにもちっぽけなコップ一杯になってしまうのだろう。

他の人はそれで十分満たされることも、もう満たされることはなくなる。

プールに対するコップだから。

普通の人が幸せを感じることが…きっと、子供のおままごとのように感じてしまうのだろう。

もう、大人はおままごとでは幸せは感じれない。

容量があまりにも大きくなってしまったんだ。

だからさ、おままごとで幸せを感じれる時期は貴重なんだよ。

子供は子供らしい遊びでたくさん遊んで、たくさん幸せを感じればいい。

人間はさ、適切な成長段階と身の丈にあった欲望の容量の容れ物を持つべきなのだよ。

子供の容れ物を一気に大きくすることは、幸せを感じる機会を奪っているのかもしれない。

なかなか、満たすものを準備できないのに、容れ物の容量ばかりを大きくしていくのに、腐心してはいけない。

あと、すでに大きくなりすぎた容れ物の中身を満たすのに毎日必死になっているのもなんだか、悲しい。

必死に巨大な容れ物に水をせっせと汲むのに時間を奪われる。

もしかしたら、今はそんな時代なのかもしれない。

何故なら今の時代はスマホですぐに自分の欲望に誰でも簡単にアクセスできる。

ある意味平等に幸せな時代なのかもしれないし、その分自己管理が大変な時代なのかもしれない。

でも、もうスマホのない時代には戻れない。

時代はどこまでも変化しながら流れる。

まるで、行き先のわからない列車に乗っているみたい。

より刺激的なものを求めて…一時的な快楽だけを求めて加速しすぎたら、先は短くなるのはなんとなくわかる。

ゆっくりゆっくり走ればいいのかな?

それとも、疾走感で気持ちよくなりながら全力で走る?

ゆっくり走らないと、周りの景色をみれなくて、自分の今いる場所がよくわからなくなる。

でも、ゆっくり走りすぎると取り残されてしまう。

だから、エネルギー切れにならないように、自分を見失わないように、出来るだけ周りを見ながら走り続けるしかないんだ。

この時代で今を精一杯生き続けるしかない。


胃袋のようにすぐに渇望する欲望の容器と共に。

ある主婦のある空虚な気分

ある主婦の戯言。

朝起きて、洗濯物してさ、洗濯物干してさ、食事の準備してさ、食べてさ、食器洗ってさ、買い物行ってさ、買ってきたもの冷蔵庫にいれてさ、また食事作ってさ、洗濯物入れて畳んでさ、ごはん食べてさ、食器あらってさ…なんやかんやさ、色々しているうちに、1日が終わってさ…寝て

起きてまた、洗濯して…


そう、1日の大半を家事に費やしている。


もちろん、この事はさ、意味が無いわけじゃない。大切なことだよ。必要な事だよ。

だけど、なんだかね、

時々ふとした瞬間に…虚しくなる。

なんでだろうね。

役割があって、それをできることは幸せなはずなのに。

きっとね、欲張りなんだ。

自分はこんなことよりもっと出来ることがあるはずだって。

家事なんかにエネルギーと時間をかけてる場合じゃない!ってさ。

そう思いたいんだよね。

そう思いたいんだ。

だけど、現実の私の役割はさ、今やっている事がさ、嘘でも偽りでもなく、それ以上でもそれ以下でもない訳で。

ただその役割がここにあることが真実で。

なのに、何処かにキラキラした別の役割があると思っている。シンデレラがお姫様になるのを夢見てるみたいにさ。

少女でもないいい歳した主婦がさ。

夢だけはまだみたいらしい。

だけどね、現実の私はただ、日々の生活と家事をこなすのに、エネルギーと時間を費やすだけ。

あの、大人になるまでのアホみたいに頑張って集めた知識はなんだったんだ?

過去に覚えた数学の方程式も、必死に覚えた英語の単語も、地球の歴史やなんやかんや…一度は私の頭の中に入ったはずなのに、通り過ぎて、何処かへ行ってしまった。

あれは一体なんだったんだろう。

その風化した後の残骸が、積み重なることなくバラバラと無造作に私の中で散らばっている。

何も形をなさずに。     

この知識はガラクタも同然なのか?   

このガラクタたちで散らかった部屋のような場所は、私の頭の片隅にひっそりと存在している。

きっと、ガラクタをガラクタにしてるのは私だ。

ガラクタにされてしまって何にもなれずに虚しくそこにあるだけだ。

そしてずーっと手がつけられないまま私に見てみぬふりされているんだ。

あーこの部屋、片付けないとなぁ…いつか。

そう、ぼんやり思いながら…

そしてまた朝がきて1日が始まる。

ただ、今、目の前には、沢山の家事が待っている日常が列をなして続いている。

そして、あの部屋には埃が積もり続けるんだ。なんの意味も為すことなく。

別に今の生活は不満じゃないよ。毎日充実してるし。普通に生活していけるだけ幸せだって。本当にそう思う。

もうさ、シンデレラがお姫様になれることを本気で信じるような年齢でもないしさ。

でも時々さ、虚しくなるんだよ。

だから夢を描く。

たとえ、叶わなくったって夢を描くことをしないと、生き続けるのは難しいんだよ。

例え、辿り着けなくてもさ、目標のない山登りと、目標のある山登りは全く違うんだよ。 

目標がないと…挫けてしまいそうになるんだよ。

目標に向かって力強く突き進んでいきたいんだよ。

つなぎとめるものがないと、バラバラになってしまいそうになるから。

だから、私はまだまだ夢を描きたい。

時々その夢の輪郭がかげろうのように消えてしまいそうになるけど。

描き続けたい。

ガラクタが何かになれるチャンスもあるかもしれないから。

【スポンサーリンク】