悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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人間って何で刺激的な事が好きなんだ?

人間って刺激的な事が好きだよね。

うん、色々な例があると思うけど、例えば、味覚。

子育てしてるとよくわかるんだけど、一度味が濃いものを食べちゃうと後戻りできないんだよね。

もうね、薄い味じゃあ物足りなくなるの。

刺激的な味の虜。

幼児に初めてチョコなんか食べさせた日には、きっと脳がビックリするよね。

なんだ?!この美味いものは!

脳が大喜び。

もう、今まで美味しい美味しいと食べてた味が物足りなく感じてしまう。

でもさ、一度刺激の強い味を知っちゃうと、味覚が鈍感になってしまうのではないかな。

薄味のバリエーションを知る機会が失われてしまう気がする。

ある意味幸せを感じる機会を奪ってしまう。

人間は段階を踏んで成長するのが大切なのだよ。きっと。

いきなりトップレベルの快楽を知ってしまうと、今までコップぐらいの計量カップがさ、いきなりバケツぐらいの容量になっちゃうって感じ。

もう、今まで満足していた量じゃあ、全然満たされないの。

今までだったらすぐに満たされてたのに、もう容量がバケツになっちゃったら、何?こんだけ?全然足りない。ってなっちゃうわけ。

その容量を大きくし続けることは幸せなのか?

一生チョコを知らないコップぐらいの容量の人生が果たして幸せなのか?

それはわからない。

だって、もう私たちは周りにチョコが溢れている世界にいるのだから。

チョコのない世界にはもどれない。

チョコぐらいなら、継続的に入手できるし、健康にも大した害がないからいいかもしれない。

ただ、それが継続的に入手するのが困難で、健康に悪影響だったら…。

不幸になるかもしれない。

極端な例が麻薬。

麻薬なんてきっといっきに容量をプールぐらいにしてしまうのではなかろうか?

もう、今まで「幸せ」と感じていた事柄があまりにもちっぽけなコップ一杯になってしまうのだろう。

他の人はそれで十分満たされることも、もう満たされることはなくなる。

プールに対するコップだから。

普通の人が幸せを感じることが…きっと、子供のおままごとのように感じてしまうのだろう。

もう、大人はおままごとでは幸せは感じれない。

容量があまりにも大きくなってしまったんだ。

だからさ、おままごとで幸せを感じれる時期は貴重なんだよ。

子供は子供らしい遊びでたくさん遊んで、たくさん幸せを感じればいい。

人間はさ、適切な成長段階と身の丈にあった欲望の容量の容れ物を持つべきなのだよ。

子供の容れ物を一気に大きくすることは、幸せを感じる機会を奪っているのかもしれない。

なかなか、満たすものを準備できないのに、容れ物の容量ばかりを大きくしていくのに、腐心してはいけない。

あと、すでに大きくなりすぎた容れ物の中身を満たすのに毎日必死になっているのもなんだか、悲しい。

必死に巨大な容れ物に水をせっせと汲むのに時間を奪われる。

もしかしたら、今はそんな時代なのかもしれない。

何故なら今の時代はスマホですぐに自分の欲望に誰でも簡単にアクセスできる。

ある意味平等に幸せな時代なのかもしれないし、その分自己管理が大変な時代なのかもしれない。

でも、もうスマホのない時代には戻れない。

時代はどこまでも変化しながら流れる。

まるで、行き先のわからない列車に乗っているみたい。

より刺激的なものを求めて…一時的な快楽だけを求めて加速しすぎたら、先は短くなるのはなんとなくわかる。

ゆっくりゆっくり走ればいいのかな?

それとも、疾走感で気持ちよくなりながら全力で走る?

ゆっくり走らないと、周りの景色をみれなくて、自分の今いる場所がよくわからなくなる。

でも、ゆっくり走りすぎると取り残されてしまう。

だから、エネルギー切れにならないように、自分を見失わないように、出来るだけ周りを見ながら走り続けるしかないんだ。

この時代で今を精一杯生き続けるしかない。


胃袋のようにすぐに渇望する欲望の容器と共に。

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