ずっと、読んでみたかった遠藤周作の『深い河』を読んだ。
きっかけは、宇多田ヒカルがこの小説にインスパイアされて「Deep River」という曲を作ったということを知っていたから。
彼女が感銘を受けた、というだけで私の中では読むにあたってとても信頼できた。
きっと、この小説は私にとって有意義な一冊となるに違いない…と、確信した。
宗教関係の小説ということも、とても私の興味を引いた。
遠藤周作はキリスト教徒だということを、Wikipediaで調べて知った。なのに、小説の裏表紙に書かれた内容の要約は、それぞれの人生での喪失感を抱えた人たちのインド旅行なのだ。
その奇妙な組み合わせに、より興味を持った。
無宗教の私は、きっと自分の信じれる信仰を探してる。
それは、様々な場所から、いいとこだけを掻い摘んで組み立てられたものでもいい。
とりあえず、自分が信じれる何かを沢山知って集めたいのだ。
だから、この本で、そんな私にとっての有意義な道標が一つでも見つかればいい。
そんな気持ちで本を開いた。
正直に言うと、途中だれた。もう、読むのをやめたいと思った。
一人一人のエピソードが少し冗長に感じたからだ。私は元々小説を読むのが苦手だから。
だけど、読む前に、「この小説は絶対に最後まで読む」と決めてたので、読んだ。
結果、読んで本当に正解だった。やはり、最後まで読まないと見えてこない珠玉のような光景がこの小説には存在した。
私はニーチェのいう、「血で書いたもの」をこの小説の文章に感じた。
私はもともと、そのような血の匂いのするような作品を好むのだけれど、まさに『深い河』は間違いなくその類の作品だ思った。
遠藤周作が「自分の棺桶には、『深い河』と『沈黙』をいれてくれ」とお願いした程、思い入れのある作品らしいが、読んでみてなっとくした。
この小説には大津という、愚直でなんとも純粋なキリスト教徒が登場人物でいる。どこにいっても居場所のない彼が、きっと遠藤周作の自分の境遇や信仰についての考えを語る代弁者のような役割をになっていることは間違いないだろう。
なぜなら、大津の語る言葉には、とても熱いものを感じたし、私の心にとてもよく響いたから。
大津はキリスト教徒でありながら、汎神論的な考えももっていた。キリスト教徒でありながら、ヨーロッパの寛容さのないキリスト教の考え方に居心地の悪さを抱いていた。
彼はこう言っていた。「神様にはいろいろな顔がある」と。
そんな相反する思想が同居した彼の描写は私にとって目から鱗だった。何故ならキリスト教を信じるということは、一神教に凝り固まった考えの人しかいないと思っていたから。
だけど、少なくとも、遠藤周作はそうではない寛容な考え方をもっていたキリスト教徒であることを知った。
ある意味、この小説で書かれている内容は遠藤周作の信仰の告白のようなもので、とても勇気がいることだったと思う。
調べてみたら、『深い河』は闘病しながらの執筆だったらしい。おそらく、自分をすべて表現し尽くす覚悟で臨んで書いた小説だったであろうことは容易に想像がつく。
だからなのか『深い河』を読んで、私はとても純度の高い作品だと感じた。そう、とても純粋すぎて心配になるほどの正直さを感じた。まるで、大津のように。
最後の終わり方は、あまりにも私にとっては辛くて、少し吐き気を催したほどだった。
ネタバレになるので、詳細はここでは書かないが、とにかく、無慈悲な結末過ぎて辛い。だけど、それがバッドエンドなのか、と問われると…わからない。
おそらく、この終わり方はひたすら現実的で、むしろ、ひたすら真実の側面を表しているのだけれど…やっぱり、今の私には残酷極まりなくうつった。
だけど、おそらく、この小説はこのような終わり方であってこその名著なのだろう。
この小説の中で大津が、好きで何度も繰り返し読んだとされるマハートマ・ガンジーの言葉がある。
「さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集り通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないではないか」 (引用:p.326)
偶然にも、私もこの言葉を『100分で名著』のガンジーの放送回で知って、とても感銘を受けて、心に刻もうと誓ったのを、今でもはっきりと覚えている。
ガンジーは熱心なヒンズー教徒でありながら、他宗教の信仰も尊重していた。
この矛盾ともとれる思想が、私にはとてつもなく尊く感じ、そんな彼の言葉が紛れもなく求めるべき真実を表しているように思えた。
その彼の言葉は、私の中の構築中の思想を後押ししてくれる事にもつながった。
人間は真実というものを、はるか先に想定して、そこに向かって創造していっているのだと。
だから真実は元から存在しているのではなく、人間が各々が信念に基づいて立てた目的地点の旗のようなもので、そこに向かって創造することで、仮の真実を真実にしているのだと。今の私は思う。
そして、この世界を構成するのは人間だけじゃないから、この世界に存在する人間以外の意志も、この世界の姿に関わっているのだと。
そういう意味で、みんな、同じ場所に向かっているのだと思う。
何故なら、私たちが生きているこの世界はいつまでもいつまでも一緒に共存するしかないのだから。
小説の中で、ガンジス川で沐浴しながら無宗教の美津子はこんな言葉を発していた。
「真似事の愛と同じように、真似事の祈りをやるんだわ」
(中略)
「でもわたくしは、人間の河のあることを知ったわ。その河の流れる向こうに何があるか、まだ知らないけど。でもやっと過去の多くの過ちを通して、自分が何を欲しかったのか、少しだけわかったような気もする」
(中略)
「信じれるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」
(中略)
「その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」
(引用:pp.360-361)
信仰が持てず、はるか先に目的を設定するような信念を持ち合わせていない美津子が発したこの言葉のように、確実に信じれる真実というものは目の前に広がる現実しかないということなのだろう。
そして、私は美津子に「創造の目的が欲しいのに、どうしても手に入れれない宗教を失った現代の日本人特有の虚しさ」を感じずにはいられなかった。
美津子は信じれるものを何も持ってない分、他のどの登場人物よりも哀れにうつった。
他の登場人物には、何かしら、宗教ではないが個人的に「信じるもの」をもっているようだったから。
例えば、既存の宗教とは違う形の信仰として、「動物との繋がり」が沼田を通して描写されていた。
彼はペットの動物と自分のつながりを強く信じていて、自分の命に関わる手術中に、妻が世話を忘れて死んでしまったペットの九官鳥が、自分の身代わりで死んだと信じてやまなかった。
昔の私だったら、こんな沼田の信仰を鼻で笑っていたに違いない。
だけど、動物やペットに自分に都合の良い幻想を抱くことは、もはや今の私にはちっとも馬鹿になんかできない。
人間が動物やペットの生や死を通して、自分の人生に絡ませている実例を私は自分を通して知ってしまっているから。
人間はそうやって個々の人間の人生のストーリーを創造しているし、動物側にとって、それが真実か真実でないかを考えることは意味がない事なのだ。
動物側に関係なく、自分が真実だと思うことが真実になっていくんだ。
カントが人間は決して「物自体」に行き着くことができないと言ったように、動物側についていくら考えても、決してその世界に辿り着くことができない。
重要なのは、今生きている人間が、人間の世界にどのように彼ら(動物)を有意義な存在にするかだ。
人間は人間の世界を創造していくことしかできない。
それは、死者に対しても同じで、死者が今どこにいるか等の「かくれんぼ」のように故人を探すことに意味がなく、今ここの人間界に生きている人間が死者をこの世界に有意義に絡めた世界(ストーリー)を目の前の現実に創造していくことが、即ち真実となる。
そう考えると、真実とは「ある」ものではなく、「つくる」ものだと。
だから、実は死んだ人をどこかに探すのは、死んだ人をこの自分が生きている今の世界に何とか意味付けして有意義に創造することだった。
その死をなんとか自分の人生に組み込ませて最大限に生かすために。
そう、「死んだもの」をなんとか自分に同化させようと必死にもがく。亡き者をこの世界にまだまだ影響させるために。
それは愛のなせる技だと思う。
私が、死んだペットのハムスターに、勝手に「私に命について大切な事を教えるために、ここにきてくれた」と自分に都合よく意味付けしたように、宗教は、何もしなければ「虚無になってしまう」ことを美しくこの世界に意味付けして真実にしてくれる。
大津がこんなことを言っていた。
「神は手品師のように何でも活用なさると。我々の弱さや罪も。そうなんです。手品師が箱のなかにきたない雀を入れて、蓋をしめ、合図と共に蓋を開けるでしょう。箱のなかの雀は真っ白な鳩に変わって、飛びたちます」(引用p.104)
また、こんな風にも言っていた。
「神は存在というより、働きです。玉ねぎは愛の働く塊なんです」
大津は無宗教の美津子が「神」というワードを用いることに嫌悪感を抱くため、美津子に話す時かわりに「神」を「玉ねぎ」と言い換えていた。
そう、「神」は「玉ねぎ」でも何でもいいのだ。
既存の宗教は「膨大な手間暇をかけて精密に構造が組み立てられた虚無を有意義に変換してくれる普遍的な豪華キット」ってだけで、虚無を有意義に変換する手段や工夫や知恵はいたるところにみられる。
ペット、スポーツ、占い、芸術、大切な人の死に際の言葉…などなど。
結局は生きている自分の人生を無駄のない有意義な素敵な豊かなストーリーにしたいから、自分の信じたいことを信じるのだ。自分の立場、境遇、環境、経験によって。
大切な人の死を無駄にしたくない。今まで費やした時間を無駄にしたくない。自分が何かに費やしたエネルギーを無駄にしたくない。自分の人生を無駄にしたくない!
そう、人間は、自分の時間やエネルギーが無駄になったり、虚無になったりするのが何よりも苦痛なんだ。
だから、イエス・キリストは確かに弱者の救世主だ。弱者の苦しみや罪や辛さに、美しいストーリーを与え、この世界の真実にしてくれる。
意味がないような生や苦しさや死を意味があるものに変換してくれる。
それは、彼らが信じている以上、紛れもない真実で、そういう意味ではキリストが救世主なのは彼らにとっては真実だし、周りの人間にとっても真実となる。
何故なら、キリスト教徒の人間が、キリスト教徒じゃない人にキリスト教にのっとった行為をしたとしても、そのキリスト教徒でない人にとっても紛れもない真実となるのだから。この世界を共有している限り。キリスト教にのとった「やさしさ」は、施された人にとっても「やさしさ」であることに変わりない。
こうやって、宗教を持った人も、そうじゃない人も、自分のそれぞれの人生を有意義にするために、それぞれのストーリーを創造し、時にストーリー同士が衝突しながら、それでも、交わりながら、変容しながら、点の連続のように続く人間の世界を創造していっている。
その世界は紛れもなく、いつまでも一つだ。
私は『深い河』を読んで、遠藤周作のガンジス河のような寛大な精神を見た気がした。
そして、私は『深い河』で得た道標を自分のストーリー構築に活用しながら、まだまだ何かに向かって歩き続けていくのだろう。
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