悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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最高に幸せな瞬間に現れるもの

私は最高に幸せな瞬間を味わったことがある。

 
体も心も。
 
すべてが満たされた瞬間。
 
あ、私は今この瞬間、これ以上ないくらい幸せだ…って。
 
もう、これ以上の幸せな状態は存在しない…って。
 
だけど、その瞬間、私の隣には、ものすごい恐怖と絶望の影が同時に現れた。
 
ちょっとでも油断するとそこに吸い込まれるように。
 
そんなどこまでも落ちていく真っ暗な穴が、足元のすぐ隣にあるような・・・骨の芯まで冷たくサッと冷えていくような。
 
そんな残酷な無機質な闇の存在がふっと現れた。
 
これは、嘘みたいだけど、私の中では事実だった。
 
そう、最高の高さまで行ってしまったら、あとは落ちるしか道はないんだ。
 
それを体全身で感じ取った。
 
今の最高の状態を失うのがとてつもなく恐ろしく、この状態を失った自分はどうなってしまうのか?・・・想像しただけで目の前が真っ暗になる・・・と、とてつもなく弱い生き物になった気がした。
 
この時、あー麻薬の副作用に苦しむ人は、きっとこんな感覚なんだろうな…っと、なんとなく確信した。
 
すべては振り子のように高いところに行ったら、落ちるエネルギーも大きくなる。
 
欲しいものを手に入れたら、失う怖さも手に入れる。
 
こどもを授かった喜びを手に入れたら、失う悲しみも手に入れる。
 
振り子は常に揺れている。
 
時に高く激しく。
 
時に低くゆっくりと。
 
どっちも、生きているからこそだ。
 
エネルギーをもっているからこそだ。
 
振り子が静止する時。
 
それは、即ち、「死」を意味すると思う。
 
周りの環境に影響され、惑わされながら、翻弄されながら・・・オロオロしながら生きていく。
 
疲れ果ててしまう時があっても、絶望に打ちひしがれるときがあっても
 
それでも、やっぱり、それは人生を美しくしていると思う。
 
最悪な状態があるってことは、逆の最高の状態もあるって事だから。
 
色々な色があって、世界は美しく生き生きと輝いていると思う。
 
吸い込まれそうな真っ暗な穴があるなら、眩しいほど光り輝くひらかれた空があるから。
 
・・・でもやっぱり、まわりにふりまわされてばかりじゃ、きっとよくない。
 
自分で、振り子の動きを調節するんだ。
 
周りによってではなく、自分が振り子の動きを管理する。
 
 
幸福と快楽とは大変異なった二物で、隷属と自由ほどの相違がある。
 

 

この言葉はアランの『幸福論』の「行動すること」という項に書いてあった言葉だ。
最近、アランの『幸福論』は今の私こそが読むべき名著だと信じてやまない。
今の私の中にズキズキ響く。子どもの時の私でも、今より少し若い頃の私でも、この本の内容が入ってくる入り口は開かれていなかった。今の私だからこそ、アランの文章が私に涵養できる。じわじわしみこんでいく。
 
とにかく「行動すること」という項は私にとって重要なことが高密度に詰め込まれている。
 
以下、長いけれど「行動すること」の私の大好きな部分だ。
 
人間は自分からやりたいのだ、外からの力でされるのは欲しない。自分からすすんであんなに刻苦する人たちも、強いられた仕事はおそらく好まない。だれだって強いられた仕事は好きではない。だれだって身にふりかかる不幸はいやだ。止むを得ないと感じてよろこぶ者はいない。しかし、自分の意志で苦労をつくり出すやいなや、ぼくは満足する。ぼくはこのようなプロポ(哲学断章)を書いている。「そりゃ、骨の折れる仕事だ」と、文筆で食っている者なら言うだろう。ただ、だれもぼくにそれをやりなさいとは言っていないのだ。自分が好きでやっているこういう仕事は楽しみであり、もっと正確に言えば、幸福である。ボクサーは逃げまわって受けるパンチはいやだが、積極的に出て受けるパンチは好きだ。戦いが自分の意志で行われるならば、困難な勝利ほど楽しいものは何もない。ほんとうのところ、人間が好きなのは力[可能性]にすぎない。ヘラクレスは怪物どもを探し求め、退治することによって、自分の力を自分自身にあかししている。しかし、彼が恋におちいったとたんに、自分が奴隷状態にあることを感じ、快楽の力を知った。人間はみんなそういうものなのだ。だからこそ、快楽は人間を憂鬱なものにするのだ。
 

 

そう、私だって、誰かに強制されて、「私の文章」を書いたことなんて一度もない。
わたしは「私の文章」を書くことを自分が好きでやっている。
 
そう、誰かに書けって言われて書く文章は、もうその時点で「私の文章」ではなくなるんだ。
 
山登りが好きな人が、身体も精神的にも苦しいことをやってのけるように、私も文章を書いていて苦しいこともあるけれど、それは好きでやっている労苦だ。
 
その労苦がある分、それを乗り終えて自分が望むものに到達できた時の快楽はひとしおだ。
 
幸福と快楽は全く異なるものだって、私はきっと理解できた。
快楽の中に幸福はない。幸福のなかには快楽はあるだろうけれど、その快楽はさまざまな色のうちの1つにすぎない。
 
それを頭でしっかりと理解でいているなら、きっと私は快楽とその反動を怖がる必要なんて全くないってわかる。
 
怖がらなかったら、きっと快楽に支配されることはない。
 
だから、私は自分だけの幸福をつくれるって信じてる。
 
 
 
 
 

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