悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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愛の反対は無関心は本当?深く考えてみた

思考するヒエヒエです。

「愛の反対は憎しみではなく無関心だ」というマザーテレサの言葉が、どこかで紹介され、知った時は衝撃的で、私は感銘を受けたものです。

本当にそうだ!とつい最近までこの言葉を信じてやまなかったものです。

しかし、最近「本当にそうだろうか?」と懐疑的になってきました。

何故なら私は「愛は大きなエネルギーで、愛は繋がっていく」と考えているからです。

ここで、「なんだ?スピリチュアル的な話か?パス!」って思わないで下さいね。

簡単な話です。

例えば、子育て中の私の経験から例を挙げてみます。

私が妊娠中の時、私の母はとても私のサポートをしてくれました。

栄養のある食事を作ってくれました。
無理のない生活を送らせてくれました。
私の身体を気にかけてくれ、いつも考えてくれました。

里帰りの前は、核家族で十分なサポートを受けれなかった分、本当に有り難さが身に染みて、涙が出るほど嬉しかったものです。

そして、私も自分の娘が妊娠した時は、このようにサポートしてあげよう、と心から思ったのです。

そして、きっと私は自分の娘が妊娠した時に私の母がしてくれたようにするでしょう。

例え、娘でなくても、その時に私の母から受けたサポートは違う形でどこかで現れることでしょう。

これが私の「愛は繋がっていく」の例です。

愛を受けた分だけ、愛を与えることができるのです。

夫から愛をもらったら、妻は子どもに愛を与えれるのです。

「愛」を私なりに表現するなら「陽のエネルギー」とでもしましょうか。

心がほんわかと暖かくなって、力が湧いてくる。

そんな感じでしょうか。

「エネルギー保存の法則」ってありますよね。

愛も一種のエネルギーとしたら、エネルギーは消えずに、何処かに移っていくのですね。

「愛は繋がっていく」

私はそう信じてやまないのです。

あの20世紀を代表する科学者であるアインシュタインも、「愛」を特別視していたのです。

「愛」は曖昧な概念ですが、必ず存在するものなのです。

例えば愛のある「あいさつ」と愛のない「あいさつ」って全然違いませんか?

乳幼児を子育てしていると、この違いがよくわかります。

子供を連れての外出中に全く顔見知りでないおばあちゃんに

「こんにちはー。まー大変ねぇ〜。」と優しく素敵な笑顔であいさつしてもらうと、一日がなんだか素敵になる気がするのです。

私という存在を肯定してくれている、子育てをしている自分を肯定してくれている。

一瞬の挨拶でも、そこに愛があれば、こんなにも人にエネルギーを与え、元気付けることができるのです。

そして、きっと周りにもより優しくなれる自分がいるのです。

この様な愛のある「あいさつ」は社交辞令的な何の感情もない「あいさつ」とは全く違うと思うのです。

先程「愛」は「陽のエネルギー」と表現しましたが、もっとわかりやすく言うと、「愛」とは「肯定的な関心」だと私は思います。

と、ここで本題に戻りましょう。

「愛の反対は本当に無関心か?」

という話でしたね。

先程、「愛」とは「肯定的な関心」と言いました。

「愛=肯定的な関心」と仮定するとします。

すると愛の反対は無関心ではなく
「否定的な関心」となるのではないでしょうか?

「否定的な関心」

パッとイメージがわかないですね。

では、私が先程
愛を受けると「心がぽかぽかしてきて力が湧いてくる」と書きました。

「愛」とはエネルギーでこのエネルギーを「陽のエネルギー」と表現しました。

ではその反対とは…

私は「無関心」は少し違うと思うのです。

「無関心」は「無」ですから。

「愛」というエネルギーの反対のエネルギーでなければならないと思うのです。

それは「心がトゲトゲしてきて力が湧いてくる」エネルギーではないでしょうか?

それはどんな時でしょうか。

私は、それは…

苦しみながら倒れている人がいたら泣きながら優しく手を差し伸べるのが「愛」のある行動とするならば、「愛の逆」はその人に通りすがりに笑いながら唾を吐くような行動だと思うのです。

私がその倒れている人だったら無視して素通りする方がまだマシなのです。

ですが、苦しんでいるのを見て、笑いながら唾を吐かれたら…。

トゲトゲした感情が一気に湧いてきませんか?

自分が動けるようになったら復讐してやる!ってなりませんか?

そのような、「心がトゲトゲしてきて力が湧いてくる」そのような感情を湧き出すエネルギー。

このエネルギーこそ「愛」の反対のものだと思うのです。

「否定的な関心」「陰のエネルギー」とでも表現しましょうか。

私ごとですが、最近ブログで悪意のあるコメントが書かれました。

それはその人が傷つくだろうと考える色々な差別的な言葉を駆使し人を貶めたい、馬鹿にしたいという思いが伝わるコメントでした。

この様なコメントを書かれた時、私はとても嫌な気分になったのです。

そう、その人の思惑通り、トゲトゲした嫌な気持ちが湧き上がり、イライラしたりしたのです。

私の世界が暗く冷たくなったのです。

情けなく悲しいことにそのイライラが子育てにも影響したかもしれません。

正に「陰のエネルギー」を受けて、周りの人にも流れていってしまったのです。

私の記事に無関心で、何もコメントしない行動とは、全く違うのです。

ある意味「否定的に関心がある」のです。

貶めたい。

馬鹿にしたい。

コケにしたい。

嘲笑いたい。

そんな行動が「愛」の逆なのではないでしょうか?

この様な行動はどのような言葉で表していいのか、今の私には的確な表現が見つかりません。

とりあえず「憎悪」という言葉に仮定しましょうか。

そうすると「憎悪=心をトゲトゲさせるエネルギー=陰のエネルギー」と表せます。

「愛」も繋がっていくように「憎悪」も繋がっていく。

自分が親から虐待をうけたら、自分の子供にも虐待をする、という負の連鎖って正にこれだと。

「愛」が世界を暖かくポカポカオレンジ色にするなら、「憎悪」は世界を冷たく暗く闇にする。

…で?って話ですよね。

私は世の中が愛だけの世界にしたい!憎悪の一切ない世界にしたい!

という、話にしたいのではありません。

「愛」と「憎悪」というエネルギーがなんとかバランスを保って一つの世界が成り立っていると思うのです。

太陰太極図のマークの白い部分と黒い部分があって一つとなっているように。

「愛」と「憎悪」という相反するエネルギーが均衡を保って今の世界がきっとあるのでしょう。

「愛」と「憎悪」というエネルギーがある。

ただそれだけ。

「愛」も「憎悪」もエネルギーですから、何かを生み出す。

人の場合は生きる気力になるかもしれませんね。

先程、苦しんで倒れている人の場合を例に「愛」と「憎悪」について説明しましたが、意外と一番残酷なのは、「無関心」なのかもしれません。何故ならその人に何にもエネルギーを与えませんから。

憎悪もエネルギーなので、何かを生み出しうる。

エネルギーも使い方次第、その人次第なのかもしれません。


いい映画だって、愛と憎悪が上手く織り交ぜられているからこそ、心を揺さぶるものです。

愛だけの映画なんて何になる?
憎悪だけの映画なんて何になる?

きっと愛だけでも苦しくなる。
憎悪だけでも苦しくなる。

そもそも、愛だけとか、憎悪だけが存在することなんて不可能なことなのかもしれません。

楽しい日もあれば、辛い日もある。

毎日が日曜日!は幸せか?

子育て中、素敵なおばあさんに話しかけられる日もあれば、不機嫌な人に舌打ちされる日もある。

人生は色々ある方が濃くなる。

相反するエネルギーがあって均衡を保っているからからこそ、世界は継続している。

世界が終わる時。

きっとそれは、バランスが崩れた時、又はエネルギーが枯渇した時なのかもしれない。

恒星がエネルギーが無くなったら消えてしまうように、きっと愛とか憎悪というエネルギーが無くなる時は今の世界が終わる時なのだろう。

まあ、それはいいとして、きっと私たちが危惧するべきは「愛」と「憎悪」のバランスが崩れた時の場合だろう。

今の世の中、どちらにかたよっている?

憎悪の連鎖…。

民族差別、戦争、学校でのいじめ、性差別、学歴差別、虐待、家庭内暴力などなど。

狭義的な視点からグローバルな視点までみだしたらきりがない。

もしかしたら、今の世の中は「憎悪」に押されているのかもしれない。

平和に偏りすぎたら、戦争が陰を潜めてやってくるのかもしれない。

今後、子どもたちに待ち受けている場所が憎悪に溢れている場所だったらどうする?

行く学校がそうだったら。
働く職場がそうだったら。
今後の日本がそうだったら。

もし、こんな世の中を子供たちが生きなければいけなくなるのなら、せめていつも帰る「家庭」だけは愛で溢れる場所にしとかないといけないと思う。

憎悪というエネルギーに押しつぶされてしまわないように。

そう考えると、プリキュアってなんだか凄いアニメな気がしてきました(すみません…子どもが好きなもんで)

「心のトゲトゲ飛んでいけ〜」って…

名言?( ̄▽ ̄)

今後、陽エネルギーと陰エネルギーについて考えながら観たら面白いかも。

…なんて、最後かなり余談でしたが、以上、思考するヒエヒエでした。

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