本当の意味で人を救えるのは共感だけだ。
しかも真の共感だけ。
上辺だけの「それはそれは…お気の毒にに…」みたいな近所の井戸端会議中に連発される「共感したふり」でなくて。
そして、それを時空を超えて可能にするのが芸術だと思う。
人に言えなくて辛い思いをしている人は沢山いる。
周りに言いづらいからこそ、悩むのだ。
その普通なら他人に言いづらい思いをさらけ出して、文字で表現し、本という形にしたものが芸術としての小説だと思う。
芸術は一人で抱え込んでいる苦悩を救える。
だから、本当の芸術としての小説を生み出すのはかなりの苦痛をともなう。自己犠牲の精神が必要なのだ。
なぜなら、本来ならさらけ出したくないものをあえてさらけだすのだから。
他の人が、目をそらせたい事をそらさずに…むしろ、穴が開く程見つめないといけないのだ。的確に表現する為に。
その作業はそれは辛い作業だ。しかし、そういうものでなければ、真に人を救う事はできない。
詩人は苦痛をも享楽する。
(出典:宮沢賢治 農民芸術概論綱要)
そんな事が出来る詩人は実は世間で思われているよりずーーっとすごいことをやってのけている人達なのだ。
本当の芸術は、きっと制作者の人知れない自己犠牲による産物なのだ。
自分を見せしめとして他人を救う。ある時は自ら道化師になり、身代わりの藁人形のようになる。そうした自己犠牲によって孤独から救う。
もしかしたら、自己犠牲を行っているなんて本人も他人も気づいていない場合もあるかもしれない。
だけど、本当の意味で人を救うには、形は色々あるかもしれないが、自己犠牲が行われているのだ。
例えば、漫才の自虐ネタにウケているお客さんの顏を想像するとよくわかる。みんな馬鹿にしている眼差しを漫才師に向けている。だれも、その漫才師の立場なんていうものに、思いを馳せない。ただその滑稽な姿を見るだけ。そして、それはその眼差しを許せるだけの寛容な心を持っている相手だと思っているからこそ、向けられるのである。
傷つきやすいピエロなんて、誰も笑えないのだ。
自虐ネタによって、「なんだか救われた気がする…」と思うのは、漫才師のそういう自己犠牲的行為によるものだ。
自己犠牲によってしか、真に人を救うことはできないのかもしれない。
イエス・キリストが十字架で処刑された事が、こんなにも多くの人を救っているのは、自己犠牲のそのような面を裏付けていると思う。
別に、私は自己犠牲って素晴らしい!全人類が命をかけるべきだ!なんて事は言いたいわけじゃない。自己犠牲といっても一見わからないような色々な形があるのだから。それは人によって、立場によって様々な形がきっとある。「命をかける」という自己犠牲の形は、様々な形の中の分かりやすい一つの形でしかない。
真の芸術作品を創る作業はきっと自己犠牲が関わっている。
人の心を動かせる作品を創るには相当な力がいるのだから。エネルギーがいる。そしてタイミングも。
これは事実だと思う。
簡単に作業的になんて心を動かすものは出てきやしない。巷に溢れているどうでもいいお金儲けが目的の適当な時間の無駄記事なんかより、字を覚えたばかりの子供が一生懸命書いた手紙の方が心を打つに決まっている。
そして、悲しいかな…真の芸術作品は即時的にお金を生み出す仕事とはかけ離れた位置にあるのだ。
宮沢賢治の以下の文は私の心に響いた。
職業芸術家は一度亡びねばならぬ
(出典:宮沢賢治 農民芸術概論綱要)
きっと宮沢賢治は本当の芸術とは何かを知っていた。
すべての書かれたもののなかで、わたしが愛するのは、血で書かれたものだけだ。血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。
フリードリヒ・ニーチェのこの格言が大好きだ。
ゲーテもこう言っている。
君の胸から出たものでなければ、人の胸を胸にひきつけることは決してできない。
(出典:「ファウスト」第一部五四四ー五行)
本当にそう思うし、そう思い続けたい。
どんなに馬鹿にされても、蔑まれることがあっても、静かに心から微笑んでいられるピエロになりたい。