悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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いくら自分が名作だと思うものでもボロクソに言う人は必ずいる

いくら自分が「感動した!名作だ!」と思ったものでも、すっごいボロクソ言う人は必ず存在する事を、ネット上で「これでもか!」というほど知った。

そう、よくあるレビューとかにしばしば出現しますね。

☆5、☆1とかレビューしてコメント残るあれ。

あの低評価の長文読んでたら、負の感情をもろにぶつけてたりしてしんどくなりますね。

そんなレビューしている人って総じて、「自分が感じている事は絶対」みたいな論調で書いてるってこと。

「自分に響かなければ、その作品は不可!」っていう単純すぎる思考回路なのですよね。

いや、私は別に個人的に何を感じようが自由とは思いますが、ああいうある意味公共の場で、「この作品に感動したりするやつは低能」みたいな趣旨のコメントを書く人が、なんだか私には自ら愚かさを晒している気がしてならなくて。

例えば、アニメについてのレビューで、細かいところの揚げ足取りをしたり、こういう設定なのにこういう行動は一貫性がないやら、理屈をこねくり回しているのをよくお見かけします。ついには作者の人格否定までしてしまう行為はいただけない。

・・・が、そもそも、私はアニメってそんな論理的な視点必要?って思うのですよね。

っていいながら、実は私も少し前までは、論理的にみて、少しでも違和感があれば、興醒めする・・みたいな口だったのです。

だけどね、ハッと気づいたのですね。

論理的なことばかりに集中して、「あれはおかしいこれはおかしい」って粗探しばかりに意識を向けて興醒めして「けっつまんねー」っていう思考回路は、楽しむ機会を自ら減らしている、全くメリットがないことだと。

だって、例えばディズニーランドに行ってさ、世界観とは違う箇所を一生懸命探しては、いちいち興醒めなんかして、自分の中でリストアップして、「こんなのどこが夢の世界やねん!あーつまんなかった。みんなここのどこが楽しいんか理解不能ー」って言って不満顔でディズニーランドを後にするのって何のメリットがある?

別にそんな粗を自ら積極的に見ようとすることにはゲストとしては何もいいことない。

「わーい夢の国だ〜わははー♪」って意味を問わずに踊ればいいのですよ。

だって夢の国に行きたかったからきたのでしょ?

正直ね、とるに足らない粗に気を取られ過ぎて、それを創った人が「何を表現したかったか」という点を意識して見ようとしないことは、とてももったいない。

創作側も論理的な事を気にし過ぎたら、表現の幅が狭まって、つっまんなくなると思うんですよね。

そもそも、論理的な点を気にしたら生み出せない類の創作物もあると思うのですよね。

別にロジカルな面が強いアニメもあってもいいと思うし、ロジカルな面が弱くて、叙情的な部分が強いアニメだってあっていいと思うのですよ。

要するに多種多様なのですよ。

多種多様な人がいるように、創作物も多種多様であって、その作品に合うか合わないかなのですよね。

ある作品がAさんの琴線に響くこともあれば、Bさんの琴線に触れない・・・そもそもその琴線をもっていない場合だってある。

だから、その作品が自分に何も響かなかったということは、響く琴線をもっていなかったということ。

別にその琴線を持っていない事が悪いって話じゃないよ。

生きた年代や時代、性別や性格、境遇等によって持っている琴線は様々なのだから。

だから自分がもっていないからって、持っている人を非難するのはそもそもおかしい話だし、持っていない自分を責める必要もない。

だからって、不満を撒き散らすのはどうかと思う。

「自分中心でしか世界を見れません!」と言っているようなものだろう。

論理的な事がひどく気になる人は、アニメや童話とか見るたびにイライラすることになる。

そもそもほうきに乗って空飛ぶとか、動物がしゃべるとか、論理的に考えたらおかしい事だらけですよね。

でも秩序が全くない訳ではない。
創作者が作った秩序があって、それがあるからこそ物語ができる。

物語を楽しむには、その物語の秩序に自分が合わせないといけない。自分に物語を合わせるのでなく。

自己中心的じゃあ物語は楽しめない。

だから、創作物を楽しめるか楽しめないかは論理的思考を作品によって度合いを変えれるかによると思うのですよね。

ガッチガチな論理的思考ですべての創作物を同じように見るってことは、自ら自分の琴線に届かないようにフィルターをしてしまっているような事だと。フィルター?仕切り?とにかく、たとえ響く琴線を持っていたとしてもそこに届かなくなってしまう。



感動する機会を自ら減らしちゃっているのですよ。ガッチガチの論理的思考は。

別に、「何でいつも美少女やねん」って言わなくていいじゃないですか。

かわいくて、見ていて幸せな気分になれるのならそれでいいじゃないですか。

究極的に、好きなアニメが「好みの美少女が泣いて、笑って、風のように走り抜けて、自分の好きな宇宙ものだったから」みたいな理由だけでも「感動した」ことには変わりないんですよ。

そこに無理に、設定とかストーリーの粗探しして自ら興醒めなんかしなくていい。

「心が動かされて心が熱くなるシーンがあった」

その事実だけで私はいいと思うのですよねー。

要するに「その作品は自分には合った、または合わなかった」だけでいいんです。

「作品の秩序に自分は、はなっから合わせるつもりがなかった」というのはそもそも始めっから完全にシャットアウトの状態で、琴線に触れるも何も、作品の入り口にも入れてない状態な訳で。

もうそれは、作品を読む気がなかった、感受するつもりがなかったということ。

だから、正直そういう入口で回れ右して帰った人はレビューする必要がないと思うのですけどねー。

ネット上で感動した人に対してマウントを取って不満を撒き散らすことに何のメリットがあるのか、私にはさっぱりわかりません。

共感できないのは悲しいことです。だから「こんなのに感動する人の気持ちがわからん」と悲しくなるのもわかりますよ。

うん・・・共感してくれる人がいないのは悲しいし、寂しい。

・・・・で、書いていて気付きました。そうか、「感動しない気持ちの同士」を求めている訳ですね。不満を撒き散らす人は。その作品に対して、響く琴線を持っていない同士で共感し合いたい訳ですね!

きっと、有名な作品ほど、「あのアニメ最高だよねー!」の会話で盛り上がっているなか「う・・・うん!そうだよね!」みたいな同調圧力で孤独を感じてきたから、レビューという場所を発散できる居場所として求めている訳だ。

有名な作品ほどレビューが酷いのは、普段からの本音を言えない、共感してくれない鬱憤が溜まっているのかしら?

とりあえず、はっきりしました。

好きな有名作品のレビューは、大体みていいことはなし!

「この作品好き好きー」の共感を求めているなら、そういう人が集まったコミュニティーに行くべきで、作品レビューを見るべきではない。見てもトゲに触れていや〜な気持ちになるだけだ。

大体レビューは「違う宗教の人たちが入り乱れている場所」というなんとも攻撃的な刺々しい負のエネルギーが溜まりやすくなっていたりするから、好きな作品については見ない方がいいですね。


汚いものみたさでついレビューを覗いてしまう・・・っていうマゾな事はそろそろやめた方がいいな・・・と反省したのでありました。

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