いくら、今の自分が嫌いでも、許せなくても、今の自分は今の自分でしかない。
いくらゴキブリがきらいでも、自分がゴキブリならゴキブリとして生きるしかない。
いくら人間が人間を嫌いでも、人間は人間であって、それ以外の生物になんてなれない。
どうせ「今の自分の形」以外になれないのに、今の自分を否定することに何の意味があるのだろう。
蟻だって、木だって、魚だって、今の自分以外になんてなれないのだから。
いくら魚が「今すぐ陸を歩きてー」って言ったって、どうにもならない。
「今の自分」も同じだと。
どんなに、他人に憧れたって、ひどい性格だって、パッパラピーマンであったって「今の自分」は「今の自分」だ。
もう、自分というものとしてこの世界に生じてしまったのだから、「今の自分」を受け入れるしかない。
「今の自分」が嫌いだからって目を逸らすのではなく、嫌いならむしろ見つめるべきなんだ。
今の自分について、しっかり知るべきなんだ。
今の自分を十分理解した上で、周りに最適に合わせることで、少しずつ変化していく。今の自分の最大限の力で。
もし今、自分が苦しいのならば、それは「今」に上手く適応できていないこと。進化しようともがいているところ。
今に適応して、また今に適応して、その連続で少しずつ変化していく。
それしか、ない。
適応の手段によって、辿り着く形がそれぞれ変わっていく。
人間になったり、ネズミになったり、鳥になったり、魚になったり・・・枝分かれする。
今の人間も、急に今の姿を獲得したわけじゃない。
少しずつ、少しずつ、長い長い年月をかけて今の形になった・・・のだと思う。
だからね・・・プリキュアみたいに一瞬で最強に変身なんてできない。
そんなのは、所詮ファンタジーだ。理想だ。夢だ。
苦しい今に少しずつ適応していく。
自分に降りかかる天災に適応していく。
もしかしたら、普通なら耐えれないような、ものすごく過酷な天災にあったら・・・それに適応しないと生きていけないような状況だったら・・・
それに適応することは飛躍して進化できるきっかけになる。
むしろ、「過酷な状況」これしか躍進的に進化できるきっかけはない気もする。
よくいうじゃない、天才は過酷な境遇に見舞われている事が多いって。
宮沢賢治だって、1番の理解者であった妹の早すぎる死があったわけだし。
宮沢賢治の場合、もしかしたら妹の死がなかったら、『銀河鉄道の夜』という名作は存在しなかったかもしれない。
だからって、進化したいからって、過酷な運命になんて、みんな遭うわけではないし。別に遭った人間も好き好んでそうなった訳なんかじゃない。寧ろ、全力で避けようとしたのに遭ってしまったという真の悲劇。不可抗力。
過酷な運命に押し潰されて息絶えてしまう生物もいるわけで。
結局は「運命の奴隷」って訳(『ジョジョの奇妙な冒険』の好きな言葉)
結局、「なりたい自分になる」っていう願望を・・・「自分の今」を冷静に把握しながらピントを合わせながら見失わないように見つめ続けるしかできないのだろう。「運命の奴隷」であるちっぽけな私たちには。
そんな「なりたい自分になる」っていう欲望を模索しながら、腐らずに貪欲に持ち続けている者が、過酷な運命が降りかかってきた時に、きっと・・・ピンチをチャンスにって感じで潰れずに適応できて、飛躍的に進化できるんだろう。
そう思いたい。
あみだくじみたいに、生き残る道が適当に決まるなんて、例え、もし真実であっても、信じたくないから。自分の力でも運命を変えれるって信じたいでしょ?あみだくじの一本の線ぐらいは自ら引くことができるんだって信じたい。完全な奴隷ではないと信じたい。
何だか、空想話のような話になってしまったけれど、こんなことを「今の私」の脳は思い浮かべた。
今の自分が大っ嫌いな生物がきっと、より進化できる。伸び代がある。大っ嫌いだからこそ変わりたい思いが強いのだから。今の自分が大好きなら現状維持でいいのだから。
「進化する」っていうのは運がいいのか悪いのかよくわかんないな〜・・・と平和な私の頭はぼんやり思ったのでした。
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