水曜日のカンパネラの『エジソン』って知ってる?
結構若者の間で流行ったらしいよね。
若者でない、今流行りの〇〇が全く分からない私にどうやって『エジソン』という存在が頭に入ってきたか。
それは、小学生の次女がしょっちゅう「踊る暇があったら発明してー歌う暇があったら発明してー発明王に俺はなる〜」って歌ってて、「この歌大好きー」って言ってたのがキッカケ。
給食の時間に流れてきてすっかり気に入ったらしい。
あまりにも次女が歌っているから、気になって「踊る暇があったら発明して」と、スマホで検索し、その歌が『エジソン』という曲であることを突き止めたのだ。
そして、「水曜日のカンパネラ」というグループが歌っているのを知ったのだ。
今の時代、小学生のうろ覚えのざっくり鼻歌で、本家のYouTubeのMVにたどり着くことが可能なのが凄い。
この事実は実は無茶苦茶すごいことだと今更ながらつくづく思う。
ま、そんな経緯で、私はYouTubeの『エジソン』に辿り着き、MVを見て「水曜日のカンパネラが歌ってるんだ!」って衝撃をうけた。
「水曜日のカンパネラ」・・・・・
このワードが妙に引っ掛かり、同時に奇妙な感覚に襲われた。
そう、私は既に「水曜日のカンパネラ」というワードを、ずっと昔のどこかで知っていたのだ。
その瞬間、私の中でばばばーーって、十数年前の過去のある深夜、CDTVをテレビの前で一人でぼんやりと見ている光景がフラッシュバックした。
CDTVとはご存知の通りの音楽情報番組だ。
今でも続いているらしいが、子育てを始めてめっきり見なくなった。
私はその時、子育ての「こ」の字もない孤独な若者で、ぼんやりと毎週土曜日(だっけ?)の深夜に一人でCDTVを観るのが習慣になっていた。
そして、とある日のCDTVで「水曜日のカンパネラ」が紹介されてたのだ。
その映像の一場面が本当に不思議なことに、すごく印象に残っていて、10年以上経った私の脳内にしっかりと残っていたのだ。
そのCDTVの映像とはザックリこんな感じだ。
***
ナレーションが「今、独特な世界観で人気上昇中の水曜日のカンパネラ」と紹介し、お経を唱えるような歌のMVでその独特な世界観を伝え、次に個性的なたたずまいのボーカルの女の子のインタビューにうつる。
その女の子が
「同じような曲ばっかり溢れてて、みんなそれを歌ってて、つまんなくないのかなって」
みたいなことを言う。
***
このインタビューの映像と言葉が何故が凄く凄く印象に残っているのだ。
このインタビューを見た時、私は「この女の子、むっちゃ美人な子だなー」って強烈に感じたの覚えてる。
そして、密かに嫉妬したのを覚えてる。
私と年が同じぐらいの美人な子で、みんなが言えないようなことを歯に衣着せぬ物言いで、ズバッとクールで鋭い眼差しで答える様子が、当時の私にとっては、凄く羨ましく映ったのだ。
それと同時に、そのボーカルの子に、もの凄い魅力を感じた。
彼女は私が欲しいものを全部もっている気がした。
そして、その映像が終わったら、「水曜日のカンパネラ」のことは、スパッと私の頭から消した。
そして、水曜日のカンパネラとは全く縁のない日常に戻った。
そんな若かりし頃の深夜の一連の流れを、YouTubeで『エジソン』にたどり着き、ハッキリと思い出したのだ。
だから、その深夜のあの日から十年以上経った今、まさか次女の鼻歌から「水曜日のカンパネラ」というワードに再びたどり着いたことは、なんだか奇妙な感じだったのだ。
そして、同時に『エジソン』のMVを見ながら凄い違和感を感じた。
「あれ?ボーカルの女の子があの時の記憶の中の子じゃない」
この違和感は私にとって、どうしても見過ごせないことだった。
私は急に、記憶の中の女の子のことを無性に知りたくなった。
だから私は「水曜日のカンパネラ」についてネットで調べたり、YouTubeで過去の曲をあさったりした。
そうやって色々知っていった。
今のボーカルの子は二代目の詩羽という子だということ。
前のボーカルは「コムアイ」という名前の子だということ。
コムアイちゃんは、高学歴で、母親は大学生の時に亡くなったこと。
参加したホームパーティーで「水曜日のカンパネラのボーカルをやらないか」と誘われたこと。
地雷撤去に興味があること…などなど。
こうやって、私は約10年越しにしっかりと「水曜日のカンパネラ」について知っていったのだ。
私はコムアイちゃんの頃の「水曜日のカンパネラ」のMVをYouTubeで色々見た。
そして、やっぱり、彼女はとても魅力的だと思った。
とても美しいと思った。
昔の私は、訳のわからない嫉妬で、「水曜日のカンパネラ」の存在を頭から消そうとしたが、どうしても消えなかったようだ。
やっぱり、当時私が感じたコムアイちゃんの魅力は本物だった。
自分に正直に、自分を出し切って表現活動をしているように見えたコムアイちゃんは、きっと私の理想像の一つの形だったのだろう。
そして、そんなコムアイちゃんは「水曜日のカンパネラ」をやめてしまった。
だけど、何故か、やめた後に私の元にコムアイちゃんの「水曜日のカンパネラ」が心に響き出した。
コムアイちゃんの「水曜日のカンパネラ」が失われたという事実によって、過去の作品に新たな光が宿った…と言っても過言じゃない気がする。
そんな類の存在は意外と沢山ある気がする。
失われたり、時間の経過とともに、違った輝きを増す類の存在…。
コムアイちゃんが「水曜日のカンパネラ」を辞めていなかったら、もしかしたら、一生「水曜日のカンパネラ」の過去の作品に私が触れることも、魅力を知ることもなかったのかもしれない。
そういう意味でも、二代目ボーカルの詩羽ちゃんはしっかり、水曜日のカンパネラを引き継いでいると思う。
そんなことを考えながら、私が知らない場所で確かに流れていた、「水曜日のカンパネラ」のボーカルとしてのコムアイちゃんの人生に少し思いを馳せてみた。
当たり前のことだけれども、私の知らない場所で、私以外の人の人生も形を変えながらしっかりと流れているんだな…と。
そうやって、色々な存在が過去のものになっていくのだなぁ…と。
コムアイちゃんの当時の独特なカリスマ性が好きだ。
それが特に現れているのが、『かぐや姫』だと思う。
私は『かぐや姫』が大好きだ。
見ていると、なんだか言葉では表せない「儚い美しさ」に涙が出そうな気さえする。
このMVは、なんだか、コムアイちゃんの魅力が凝縮されてる気がする。
もう、手の届かない昔のコムアイちゃんの魅力と「水曜日のカンパネラ」の奇跡的な融合が芸術として昇華されていると思う。
こんな風に、過去の奇跡的な美しい瞬間をこういう形で今でも残せるのは、とても羨ましく思う。
私はきっと、昔の私のように、そのうち「水曜日のカンパネラ」の存在を忘れた日常を積み重ねるだろう。
正直、今のコムアイちゃんの活動とかも、あまり興味はない。
だけど、コムアイちゃんの『かぐや姫』で見られるような、「刹那的な強烈な美しさ」は…きっと忘れたつもりでも、根底ではずっと忘れられない気がする。
私が過去の深夜に見たCDTVの映像を、忘れたつもりだったのに、10年以上経った今も忘れていなかったように。
本当に心の琴線に触れたものは、自分の心の何処かに、深く深く食い込むように刻み込まれているものなのだろう。
自分の意志とは関係なく、刻み込まれるものなのだろう。
そして、見えない力で、何処かへ導かれていくのだろう。
私が10年越しに『かぐや姫』の魅力にたどり着いたように。
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