言動に説得力がある人間になりたい。
メタボで不健康そうな医者が、 健康について説いても説得力がないように、 本人が成してないことを他人に言っても何にも心に届かない。
発する言葉・行動と、自分自身が一致するようになりたい。
そうでないと、何を発しても虚しくそこに漂うだけ。
掃除しない人が掃除の大切さを説いても何にもならない。
何にもチャレンジしない大人が「何事もチャレンジだ!」 と子どもに言っても何もこどもに響かない。
人生に絶望している人が「人生は尊い」 何て言っても皮肉に聞こえるだけ。
偉人の言葉に説得力があるのは、 その偉人が発したその言葉だからだ。
エジソンの「天才とは、1%の閃きと99%の努力である」 という言葉が輝きを放つのは、彼の成した偉業があるからこそだ。
言葉は言葉自体がそれだけで輝くんじゃない。
「誰から発せられたか」で人はその言動の輝きをキャッチする。
自分の過去を振り返ってみて、 自分にとって印象に残った言葉を思い出してみると、 やっぱり発した人とその言葉がセットになって記憶に残っている。
年配の方が真剣に自分の経験に基づいて発した言葉に深みを感じ取 るのは、その言葉に潜む「誠実さ」を見つけるからだ。
その言葉を発した人となりが、その言葉に輝きと深さを与える。
だから戦争の語り部の言葉は重みがある。
戦争という経験が体に染みた人の語る「戦争について」 は戦争を知らない人が語るものとは別ものなんだ。
言葉は言葉単体で価値を生み出すんじゃない。
言葉とそれを生み出す人間のセットで価値が決まる。
だから、自分の言動がより有意義なものとして響くのは、 自分のことをより知っている人間だ。
自分の人となりをしっかり知っている人に、 もっとも自分の真剣な言動は真っ直ぐに届く。価値を発揮する。
だから、もし、世界中に自分の言葉を本気で響かせたいのなら、 自分という人間を世界中に晒す覚悟と努力が必要だ。
それを実現した人というのが、偉人と呼ばれる人々なんだ。
普通の人はそんなの到底叶わないし、 自分を晒すことはきっととてつもなく困難をともなう。
だから自分に見合った範囲で自分自身に齟齬のないぴったり合った言動を誠実 に発し続けるしかない。
それが届くのも届かないのも必然なのだから。
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