悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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もう自分が価値があると思うものしか書かない。

昨日書いた記事↓

 

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私は、こんな記事はだれでもかれでも読んでもらうべきなんかじゃないと思う。

むしろ、誰かさんにとっては読まない方がいい気すらする。

でも、誰かさんにとっては価値のあるものかもしれない。

そんなことは分かってる。

でも、書く事と私は同化しているから、この記事しか、昨日の私はこの記事しか書けなかった。

むしろ、この記事は昨日というなかなかやってこない稀有な瞬間しか書けない真に価値ある記事だと思っている。

暗い気持ちを、伝染させるような記事なんて書くべきじゃないと私は思っていた。

でも、そんな気持ちはもう捨てることにした。

 

私は、自分に正直に書くし、その時の自分が書ける最大限のものを書く事だけに集中すればいい。

なぜなら、私がそんな文章が好きだから。

自分と文章がちぐはぐのものは書きたくない。

そんなものは、私にとっての駄作になることはさんざん学んだ。

何処かの誰かが読んで、どんな気持ちになるかなんて私がなんとかできる問題じゃない。

そんな問題はいくら考えたって無駄だ。

想いを巡らしても無駄だ。

無駄な努力はしない。

だから、もう、私はその時の私が書けるものを書くしかないし、私が死んだとき、残っていてほしいと思う文章はそんな文章だと思った。

 

私は私にとって価値があると思う文章しか書きたくない。

私の文章は私と同じような人にとって価値があればそれでいい。

 

 

私は前回の記事を書きながら色々な事を考えた。

なんで、私はこんなにもショックを受けているんだろう・・・と。

実はまだ引きずっている。

10年ぐらい生きた実家のペットの犬が死んだ時よりショックを受けているのは、本当に不思議でしょうがない。

多分、愛情を注いでいる現在進行形の状態で失うと、ショックが大きいのだろう。

あと、きっと罪悪感もある。

そして前触れもない突然死だったってことも。

私の中では、ハムちゃんは寒さのせいで死んだと思っているから、自分がそれに気づかずに何とかできなかったのが本当に悔しいんだ。

私は家にいたのに。私しか家にいなかったのに。私は違う部屋でぬくぬくと暖房をつけてブログを書いていたのだ。

そんな自分がなんだか許せなかった。

一生懸命資料を集めて学んで世話を一生懸命した子どもの姿も見てきた。

そんな子どもを泣かしてしまった。

でも、こんな細かい私しか知らない事情なんか誰も知らない。

だから、他人からみたら、ただの涙もろい人だ。

でも、世の中、そんなもんだと思う。

他人から見たら理解できない痛みなんかたくさんある。

私は、この自分でもびっくりの大ショックの経験から色んなことを学べた気がする。

まず、私はこのショックの苦しみから逃れるために、色々な事を考えた。

例えば、「こんなちっぽけな命一つ失ったって大したことない」

とか、「天国で幸せに美味しいものでも食べて暮らしている」とか

「私のせいじゃなくて、もともと身体が弱い子だったんだ」とか

「ネズミなんて人間と違って、なーんにも考えていない」とか

「また、違う子を買って、忘れればいい」

とか「好きなアイドルをユーチューブで見て、現実逃避しよ」とか

 

でも、そんなのは、全部弱い心を守るための防衛だと思った。

そして、それと似たようなことは形を変えて人間生活のいたるところで見られるということもなんとなく気づいた。

宗教とか、おとぎ話とか、娯楽とか、もしかしたら、自然科学にも紛れているのかもしれない。結局、弱い人間を救うために生み出された人間の知恵の結晶だった。

 

あ、これがニーチェのいうルサンチマンそのものだって。

とれないブドウを「あのブドウはどうせ酸っぱいブドウだ」って自分に言い聞かせて自分を納得させるのと同じだ。

 

そして、仏教を「宗教」というより「衛生学」に近いといったニーチェのいった意味もきっと分かる。

 

でも、それは悪いこと?

心が弱い人間はそうするしかしょうがないじゃないじゃないか。

弱いまま生きていくにはしょうがない。

ある意味、「逃げ」「防衛」は生き続けるには必要だ。

弱って動けなくなっている時間なんかない忙しい人はそうするしか仕方がないじゃないか。

 

誰もがみんなニーチェみたいに強くなんてなれない。

「死者が生きた時」をさっぱりと切り離して、「今を生きる生」に集中するなんて、要領よく切り替えれない。

弱者を救う知恵が悪いはずがない。

実際、そんな知恵こそ、多くの人間を救う。

ただ、強者側からみたら、敵対するだけって話だ。

ライオン側か、シマウマ側かってだけだ。

 

でも、確かに、「逃げ」「防衛」は「強さ」を求めるのなら根本的な手段にはならないのは事実のように思う。

 

やっぱり、本当に強い人間は、現実を受け入れる、受け入れて、次に生かす。

受け入れて、自分の生に同化させる。

心に負荷を与えて、強くする。筋肉みたいに。

痛みから逃げない。受け入れる。

だから、本当に心が強い人っていうのは、痛みをよく知っている。

様々な痛みを知っている。

そういう人が、本当の意味で、強い。

本当に強い人が未来に向かって力強く創造できる。

 

決して「生」を無駄になんかしない。虚無から救う。

虚無なんかで終わらせるのは許せないから、脚色する。

そうやって虚無に価値を与える。今を生きている者の為に死者を今の生に生かすために。美しい悲劇なんかにしたりする。

 

だから、実は今生きている人間が死者に縛られず、しっかり同化してしっかり生を謳歌することが、一番その死を無駄にしない生産的なことなのかもしれない。

 

ニーチェの思想は一般市民向けじゃない。

肉体面でオリンピックを目指すようなことを、精神面で求める人用だ。

 

やっぱり、私はまだ、ニーチェがどこかで好きみたいだ。ニーチェの超人思想が。

 

こんなことを、ちっぽけな死から考えた。

真理はきっと、こんな風に、遠くにあるんじゃなくて、目の前に転がっている。

 

私は、強くなりたい。痛みを受け入れて強くなる。時々は逃げながら、防衛しながら、でも最終的には受け入れたい。強くないと、何も守れないし救えないから。

 

しなやかな強さが欲しい。

 

来年はしっかり強くなるために努力する。

 

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ペットが死んだ

小さな小さなペットが死んだ。

子どもが一生懸命世話したのに死んだ。

幼いまま死んだ。

本当に愛らしくて可愛かった。

さっきまで感じていた、温かいフワフワはもう失われた。

昨日見た愛らしい仕草はもう手の届かない幻のようになった。

その光景を脳裏に描いて、ふっと現実の抜け殻に目を落とすと、何かが襲ってくる。

私の胸のあたりが苦しくなる。

心が痛い。

張り裂けそうだ。

私の中の何かが引きちぎられる。

痛い。

とても痛い。

不思議だ。

今朝見たニュースで、どこかの誰かが、死亡したのを知った時はこうならなかったのに。

不思議だ

私は軽薄なのだろうか?

どこかの人間が死んだ事実より、目の前の小動物の死が私の心を引き裂く。

きっと他人のペットが死んだのを聞いてもこうはならない。

なんでた?

あーそうだ、私はこの子に愛情を注いだからだ。

愛らしい仕草にうっとりしたからだ。

愛情を注いだら、もう、私の一部になってしまうんだ。

愛は無私になって相手と同化することって、西田幾多郎の『善の研究』で書いてた。

たまたま今読んでいる本だ。

私は彼の本の中に、自分を慰める言葉を探した。

なぜなら、彼は自分の子供に先立たれた哲学者であることを知っていたからだ。

愛情を注いだ分だけ、自分の一部になってしまう。

それが目の前で一瞬にして失われてしまったのが耐えれないんだ。

失われた事実で、心が引きちぎられる気がする。

「ぽっかり心に穴が開く」という表現は言い得て妙だ。

自分の愛を無差別にどこでもかしこでもばら撒いている人は大変だ。

私は軽薄な人間だから、ニュースで聞く悲惨な話しを、すました顔で聞ける。

愛情を常に多くの対象に注いでいる人は大変だ

その対象が失われるたびにズキズキズキズキ心が引きちぎられる

あー私には無理だ

私は自分の子どもだけで手一杯だ

ペットなんか飼うべきじゃない

あー私は欲張りだった

ちっぽけな小動物が教えてくれた

私は欲張りだった

子どもと生の時間を共有できることがどんなに稀有なことが教えてくれた

哲学なんてクソ喰らえだ

何が生きていく上で大切か?なんて明白じゃないか

今を謳歌する以外にないじゃないか

それが自然にできたら哲学なんかいらない

善の研究の冒頭にこんなことが書いてあった 「思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如し」

確かにそうだ

本当にそうだ

私は毎日、愛するこの生暖かい肉体にいつでも触れれるだけで十分に幸せで、それ以上も以下もないというのに

あー何で失う前に気づけないんだろう

宮沢賢治の最後の手紙が心にズキズキくる

私はこの手紙を1日に一回は脳内で復唱するべきだ

今の自分を蔑ろなんかにしてはダメだ

ニーチェの没落という言葉に夢を抱いてはダメだ

私は「今」をしっかり体全身で感じ取るべきだ

今を噛み締めるべきだ

今に同化するべきだ

未来に同化することに夢を見過ぎてはダメだ

今を全力で抱きしめるべきだ

 

私は子どもがいなかった若い時の孤独な日々を思い出した

あーあの時の方が、私は勇敢だった

怖いもの知らずだった

ドライでサバサバしていた

涙もろくなかった

でもそれは強いんじゃなくて、ただ、愛しているものが限りなく少ないだけだった

自分は強いと思っていたのは、ただそこまで愛しているものがなかったからだ

心から失って怖いものがなかったからだ

今では愛しているものをたくさん持ちすぎた

だから、私は臆病者になり、怖いものが増えた

だから、こんなちっぽけな死で涙がボロボロでてくる

昔の私なら考えれないことだ

きっと、真剣に「馬鹿みたい」って思うだろう

でも今の私はこのちっぽけな死で色々なことを連想しすぎる

私はすっかり死が怖くなってしまった

愛しているものを失うのが怖くなってしまった

愛情を注ぐということは、心の支えも得られるが、心を引きちぎられる要因を増やすことにもつながる

もう、涙脆い人を若い時のようにぽかーんと眺めることはできない

同化できる能力は知性だと『善の研究』で書いていた

そうだ、涙脆い人はきっと知性が発達しすぎてる

何でも、自分と照らし合わせることができる

きっと私は昔より知性が発達したんだ

・・・

あーこうやって、私は心の穴を埋める為に、何でもいいから、理由を探している

私の場合哲学書から探してる

そうしないと、心を保てないんだよ

何か穴に入れないと

そうやって生きていくのが人間だから

私は私のやり方で、君の死は無駄にはしない

私の一部を与えた君という存在の死を

その自己満足の表れで、私は君の死を文章で残そうと必死なんだ

君のために失ったと思ってしまった心の断片を私はこうやって意地でも心に取り戻す

私は私のためにこの文章をここに残しておく

苦しさを手放すために書く

私はどこまでも自己中だ

 

今日、この曇り空の下、子どもと一緒に君を埋めにいく

 

 

***

 

 

思索などをする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲らるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられるといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已むを得ぬことであろう。

 

出典:西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫、p.4)

 

我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂である。自他合一、その間一点の隙間なくして始めて真の愛情が起こるのである。我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。親が子となり子が親となりここに始めて親子の愛情が起こるのである。親が子となるが故に子の一利一害は己の利害の様に感ぜられ、子が親となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂の如くに感ぜられるのである。我々が自己の私を棄てて純客観的即ち無私となればなる程愛は大きくなり深くなる。親子夫婦の愛より明友の愛に進み、明友の愛より人類の愛に進む。仏陀の愛は禽獣草木にまでも及んだのである。

 斯くの如く知と愛とは同一の精神作用である。それで物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。

(中略)

しかし愛は知の結果、知は愛の結果というように、この両作用を分けて考えては未だ愛と知の真相を得たものではない。知は愛、愛は知である。

 

出典:西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫、pp.243-244)

 

 

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ブログを続けていて得た収穫

私跡をつけれたと実感できると、私は幸せを感じる。

あー今日も自分を生きれてるって実感する。

逆に、自分が望むような私跡をつけれた実感がないと、陰鬱な気分になる。

生命力が低下する。

やっぱり、人っていうのは、誰かと生きたいんだ。

誰かに自分を影響させたいんだ。

だから、私は自分が好きな文章を書いてブログに残して、スターをもらうと、なんだか安心する。 なんだかもう、子育てだけじゃあ、満足できない。

私は文章を生み出すことで生き生きできる。

文章を生み出せて、誰か一人にでも読んでもらえたら、今日もちゃんと私を生きれたって安心する。

だから私は他人に私を生かしてもらっている。

だから、何かを生み出す立場じゃなくて、それを受け取ってくれる人が、生み出した人を救っている面もあるんだなって。

大好きな創作物を愛するのは、その創作者を救っている面もあるのだな・・・と。

ブログをやってきて気づけた、大きな収穫でした。

私が他人の創作物で、とても感動することは、その創作者を救っている。

このことは、自分が何かを発信する立場にならなければ気づけなかった。

それだけでも、今までブログを続けてきた価値があったと心から思うよ。

だれの耳にも届かない草原で、全力で熱唱しても、自分を無駄に消費するだけ。

その歌声が耳に届く人が存在してこそ、熱唱する私は無駄にならない。

その人に適したステージと観客。

この二つの存在が、その人を大事にしてくれるんだね。 

 

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