悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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ペットが死んだ

小さな小さなペットが死んだ。

子どもが一生懸命世話したのに死んだ。

幼いまま死んだ。

本当に愛らしくて可愛かった。

さっきまで感じていた、温かいフワフワはもう失われた。

昨日見た愛らしい仕草はもう手の届かない幻のようになった。

その光景を脳裏に描いて、ふっと現実の抜け殻に目を落とすと、何かが襲ってくる。

私の胸のあたりが苦しくなる。

心が痛い。

張り裂けそうだ。

私の中の何かが引きちぎられる。

痛い。

とても痛い。

不思議だ。

今朝見たニュースで、どこかの誰かが、死亡したのを知った時はこうならなかったのに。

不思議だ

私は軽薄なのだろうか?

どこかの人間が死んだ事実より、目の前の小動物の死が私の心を引き裂く。

きっと他人のペットが死んだのを聞いてもこうはならない。

なんでた?

あーそうだ、私はこの子に愛情を注いだからだ。

愛らしい仕草にうっとりしたからだ。

愛情を注いだら、もう、私の一部になってしまうんだ。

愛は無私になって相手と同化することって、西田幾多郎の『善の研究』で書いてた。

たまたま今読んでいる本だ。

私は彼の本の中に、自分を慰める言葉を探した。

なぜなら、彼は自分の子供に先立たれた哲学者であることを知っていたからだ。

愛情を注いだ分だけ、自分の一部になってしまう。

それが目の前で一瞬にして失われてしまったのが耐えれないんだ。

失われた事実で、心が引きちぎられる気がする。

「ぽっかり心に穴が開く」という表現は言い得て妙だ。

自分の愛を無差別にどこでもかしこでもばら撒いている人は大変だ。

私は軽薄な人間だから、ニュースで聞く悲惨な話しを、すました顔で聞ける。

愛情を常に多くの対象に注いでいる人は大変だ

その対象が失われるたびにズキズキズキズキ心が引きちぎられる

あー私には無理だ

私は自分の子どもだけで手一杯だ

ペットなんか飼うべきじゃない

あー私は欲張りだった

ちっぽけな小動物が教えてくれた

私は欲張りだった

子どもと生の時間を共有できることがどんなに稀有なことが教えてくれた

哲学なんてクソ喰らえだ

何が生きていく上で大切か?なんて明白じゃないか

今を謳歌する以外にないじゃないか

それが自然にできたら哲学なんかいらない

善の研究の冒頭にこんなことが書いてあった 「思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如し」

確かにそうだ

本当にそうだ

私は毎日、愛するこの生暖かい肉体にいつでも触れれるだけで十分に幸せで、それ以上も以下もないというのに

あー何で失う前に気づけないんだろう

宮沢賢治の最後の手紙が心にズキズキくる

私はこの手紙を1日に一回は脳内で復唱するべきだ

今の自分を蔑ろなんかにしてはダメだ

ニーチェの没落という言葉に夢を抱いてはダメだ

私は「今」をしっかり体全身で感じ取るべきだ

今を噛み締めるべきだ

今に同化するべきだ

未来に同化することに夢を見過ぎてはダメだ

今を全力で抱きしめるべきだ

 

私は子どもがいなかった若い時の孤独な日々を思い出した

あーあの時の方が、私は勇敢だった

怖いもの知らずだった

ドライでサバサバしていた

涙もろくなかった

でもそれは強いんじゃなくて、ただ、愛しているものが限りなく少ないだけだった

自分は強いと思っていたのは、ただそこまで愛しているものがなかったからだ

心から失って怖いものがなかったからだ

今では愛しているものをたくさん持ちすぎた

だから、私は臆病者になり、怖いものが増えた

だから、こんなちっぽけな死で涙がボロボロでてくる

昔の私なら考えれないことだ

きっと、真剣に「馬鹿みたい」って思うだろう

でも今の私はこのちっぽけな死で色々なことを連想しすぎる

私はすっかり死が怖くなってしまった

愛しているものを失うのが怖くなってしまった

愛情を注ぐということは、心の支えも得られるが、心を引きちぎられる要因を増やすことにもつながる

もう、涙脆い人を若い時のようにぽかーんと眺めることはできない

同化できる能力は知性だと『善の研究』で書いていた

そうだ、涙脆い人はきっと知性が発達しすぎてる

何でも、自分と照らし合わせることができる

きっと私は昔より知性が発達したんだ

・・・

あーこうやって、私は心の穴を埋める為に、何でもいいから、理由を探している

私の場合哲学書から探してる

そうしないと、心を保てないんだよ

何か穴に入れないと

そうやって生きていくのが人間だから

私は私のやり方で、君の死は無駄にはしない

私の一部を与えた君という存在の死を

その自己満足の表れで、私は君の死を文章で残そうと必死なんだ

君のために失ったと思ってしまった心の断片を私はこうやって意地でも心に取り戻す

私は私のためにこの文章をここに残しておく

苦しさを手放すために書く

私はどこまでも自己中だ

 

今日、この曇り空の下、子どもと一緒に君を埋めにいく

 

 

***

 

 

思索などをする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲らるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられるといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已むを得ぬことであろう。

 

出典:西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫、p.4)

 

我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂である。自他合一、その間一点の隙間なくして始めて真の愛情が起こるのである。我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。親が子となり子が親となりここに始めて親子の愛情が起こるのである。親が子となるが故に子の一利一害は己の利害の様に感ぜられ、子が親となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂の如くに感ぜられるのである。我々が自己の私を棄てて純客観的即ち無私となればなる程愛は大きくなり深くなる。親子夫婦の愛より明友の愛に進み、明友の愛より人類の愛に進む。仏陀の愛は禽獣草木にまでも及んだのである。

 斯くの如く知と愛とは同一の精神作用である。それで物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。

(中略)

しかし愛は知の結果、知は愛の結果というように、この両作用を分けて考えては未だ愛と知の真相を得たものではない。知は愛、愛は知である。

 

出典:西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫、pp.243-244)

 

 

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