昨日はいい日だった。
体調も良く、午前中にてきぱきと年末に向け壁と窓の掃除をし、テレワークで家にいる夫と、早く帰ってきた幼稚園の息子と昼食のラーメンを食べ、帰ってきた小学生の娘の漢字テストの勉強を一緒にして、夕食は肉じゃがを食べ、暖かい布団で9時に家族全員で川の字になって寝た。
充実していて、哲学やら、宇宙やら、そんなもの考える脳みその隙間もなく、ただただ、今、目の前に広がっている事を、雑念なくこなしたって感じの日だった。
なんだか分からないけれど、自分を生きているだけで満足だった。
こんな日が毎日続けば、きっと私には創作活動や芸術や宗教は必要ないのだろう。
桃源郷の様に、みんながみんな一人でも欠けては困るチームの一員のように、一緒に農業を協力し勤しみながら毎日夢の様に暮らせたら、芸術や創作物は生まれないだろう。
少なくとも、『人間失格』のような類の創作物はうまれない。
いい汗かいて、ただ自分が存在しているだけで快適で、充足している日々が続く。
自分自身の肉体も精神も何も滞ることなんてない。
みんながみんな毎日ぽかぽかの緑野原を駆け回って、自然の中で仲間たちとごっこ遊びで役割をもってあそぶ幼児のように生きれたら、既存の芸術や創作物や宗教なんていらない。
毎日、大好きな人の楽しそうな笑顔をみて、「あー幸せだなあ~」と満たされて、健康体で体に必要な最低限の質素な食事を食べて、「美味しーな~」と満足して、仲間たちとぽかぽかの陽気の中、思い切り体を動かして遊んで、気持ちいい風に満たされて、笑って、夜になると寝つきよく、すぴーっと速やかに泥のように眠りの中に行き、夢も見ることなく熟睡する。ぱかーっと目を開けたら、楽しい楽しい一日の始まりだ。
そんな人にとって、苦しみのなか生きるための人間が発明した宗教も哲学も、現実逃避する創作物も創作活動も、一切必要ない。
そんなものを必要とするのは、終わりのない欲望を追い求める巨大なからくり時計のような機械の一部に組み込まれてしまった人間だ。
そんなものを必要とする人間は、体に不調を抱えてしんどかったり、日々を空疎に生きたり、自分の本当の役割がわからずおろおろしていたり、現実の仕事にやりがいを見いだせなかったり、本当はやりたくないことをやらないといけなかったり、周りに人がいても孤独だったり、周りの人が興味があることに興味を持てなかったり・・・とにかく、生きていくのに、何らかの孤独や苦しさを感じている人にとって、最も必要なんだ。
人間は、桃源郷に住む家族のような農民の様にはもう生きれない。
人間は、自然のなか無邪気に仲間たちと遊ぶ幼児のようにいつまでも生きれない。
人間はみんな、終わりのない欲望を求め続ける巨大な機械にとりこまれることを強要され、そしてがんじがらめにされている。
もう、コンビニなしでは生きれない。
もう、自動車なしでは生きれない。
もう、スマホなしでは生きれない。
もう、○○なしでは生きれないがいっぱい。
そしてどんどん機械は拡大していき、より巨大化していく。
巨大機械の目的はもはやよくわからなくなっている。チクタクチクタクと虚無な音だけが鳴り続ける。
もう、自然いっぱいの小規模な夢の国で、強いつながりと役割を実感しながらのほほんと生きれない。
どんどんどんどん、より多くの人間がその欲望機械に取り込まれ・・・そして機械の中は人であふれかえった。
そして色々なものが、一人一人に満足に行き渡らなくなった。
パッと見、豊かに見えるかもしれない。
でも、何かが薄まった。
何かが薄まっていって、何かが枯渇するようになって、生きづらくなった。
その何かは陳腐な言い方をすれば「愛」や「役割」や「繋がり」とよばれるものかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
でも、そんな生きづらくなる中でも人間は今でもしっかり生き続けている。
それは、人間が発明した、宗教や創作物や創作活動が、人間の存続を可能にしているのかもしれない。
何のために生きているのか分からない。
何のために頑張ればいいのかわからない。
何のために自分が存在しているのか分からない。
何を目的に歩き続ければいいか分からない。
巨大機械の中にいる人は苦しむ。
昔の小規模な夢の国への憧憬を手放せない人間ほど苦しむ。
機械の一部になり切れない人ほど苦しむ。
一体何のためにこの巨大機械を一生懸命稼働し続けているのだろう。
いや、もう巨大機械の目的は実は失われているのかもしれない。
まるで、目的地なく走る列車の様になってしまっているのかもしれない。
でももう、速く走り過ぎて安全にとまることはできない。
でももう、ここから抜け出すことはできそうにない。
そんな誰もがどこかで感じている虚無感から救ってくれるのが宗教や芸術や創作活動だ。それらは巨大機械の決められた身動き取れないちっぽけな空間以外の居場所を与えてくれる。
特に創作活動は、自分で自分の存在意義を生み出せる。
「詩人は苦痛をも享楽する」
宮沢賢治のこの言葉が私に響く。
この言葉が、人間が創作活動をする理由のすべてをあらわしていると思う。
「苦しむ自分」を無駄にさせない残された最終手段が創作活動だ。
「苦しむ自分」の存在に価値や意味を与えるのは、創作活動や宗教しかない。
「苦しむ自分」に自分が信じれる合理的な意味を与えてくれるのが宗教だ。
宗教等で自分で意味付けしたことを、自分だけでなく、自分以外の人間にまで拡大させようとする行為が創作活動だ。
幼くして死んだ子供や戦争で散り去った命を無駄にせず、この世界に輝かすことができる残された手段は、創作活動しかない。
創作活動は人間の欲望の行き着くところだ。
宮沢賢治なんて、闘病中の口の中に血が込み上げる時の苦しさまでも詩にして残した。
そうやって、人間は人間の知恵で人間の苦しさを乗り越えて歩いてきた。
巨大機械の中で居場所を見つけれなかった、人間の溢れるような欲望は、芸術や宗教を生み出しながら、発散されていった。
芸術や、宗教は人間の欲望があるからこそ、存在する。
身体で快楽を感じれなくても、快楽を感じたい。
例え身体はボロボロでも、よぼよぼでも、食べ物を美味しく感じることができなくなっても、命が尽きる最後の瞬間まで生きがいをずっと感じていたい。
肉体的に空間的に生身でつながれない場所にも、自分をつながらせたい。
人間の欲望の行きつく最終形態が創作活動にいそしむ姿だ。
創造者、神さまのまねごとだ。
ぽっと、宮沢賢治の死の10日前に書かれた「最後の手紙」の存在を思い出した。
宮沢賢治がこの手紙の中に書いた「慢」は、私の感じているものと似通ったものなのだろうか。
そうだとしたら、私は「慢」はとても人間臭くて、苦しさを生む憎たらしい存在かもしれないけれど、やっぱり、人間を人間たらしめる、大事なものだとおもう。
そして、私はなんだか「慢」がこの人間の世界の美しい創作物を生み出す根源に根強く関係していると思わずにいられないのです。
それと同時に、私には美しく輝く創作物も、ある種の欲張りじゃない人間にとっては、全く不要であることも、私は理解できるのです。
だから、今の私に必要なこの辛気臭い文章は、昨日の私には全く必要ないことも知っているのです。
たしかに、私はずっと前から気づいてた。
一切憂鬱な感情のない、雲一つない青空のようなすがすがしい精神状態だと、私の文章は何も生まれないってこと。
一日中、子どもたちと頭を空っぽにして、わっはっはーと楽しく過ごしたら、文章なんていらない。
でも、私はそんな状態に継続的になってしまうのを避けながら、勝手に苦しみに近づき、はいっていって文章を書こうとする。
ふと、ラッセルが幸福論で「芸術家は幸せになれることは少ない」みたいなことを書いていたなぁ~と思い出した。
うーん、確かにそう表現することは、間違いではないかもなって思う。
芸術家は人間の最高級の欲望を追い求めているから、その分の苦しさを受け入れないといけない。
だから、素敵な文章や創作物を生み出したいと強く思って、勝手に自ら苦しみの中に行こうとする私はたしかに宮沢賢治の言う「慢」に、しっかりとまみれているのだろう。
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