3歳児と1歳児の育児に奮闘中のヒエヒエです。
最近、ブログを書くのがしんどくなって休んでいました。
前回こちらの記事を書いたことがきっかけかもしれません。
こちらの記事では、自分のブログを頑張る動機、自分がなりたい自分について書いたのですが、書いているうちに混乱してきてしまって・・・。
さらに・・・
この記事でパート主婦の生き方を馬鹿にしていると捉えられるような書き方をしてしまい、それに気付いて馬鹿みたいに落ち込む自分が不甲斐なくて・・・。
実は最近ブログ以外にしなければいけない事が沢山あり過ぎてなかなかブログを書く時間がとれずにいました。
その為、正直言いまして、半分やっつけ仕事的に記事を更新しておりました。
そんな中での自分の記事の文章の未熟さ。
私は自分の表現したい事とは異なったイメージを読んだ相手が受け取ってしまう文章は書きたくないのです。
でも、その文章を書く為の能力と時間が無い、でも記事の更新を焦る自分に対するジレンマ。
そして私は最近の自分の忙しいさとブログの慣れのため、後者の記事の更新を優先していたみたいです。
そして、案の定、私の真意が伝わらない、寧ろ私の考えとは逆にも近いイメージを持ってしまう、文章を書いてしまいました。
私は人を苦しめたくない。嫌な気持ちにしたくない。そう思っているのです。
でも、果たしてそのような文章を書くことは可能なのでしょうか。少なくとも今の私には無理です。
私はもしかしたら気づかないうちにブログで誰かを傷つけてしまっているかもしれない。
私の幼児の知育の記事で、真面目なママさんをプレッシャーで苦しめているかもしれない。
自分の考えの主張の記事で、知らないうちに誰かを馬鹿にしたような文章を書いてしまっているかもしれない。
自分が「誰かさんのため」と思って書いている事は、寧ろ誰かを苦しめてたり、自分の望まない事を助長しているかもしれない・・・。
そして、私はこの「かもしれない」が「かもしれない」ではない事を知っている。
そして、自分の考えを主張するためには、ある意味ある立場の人を不愉快にしてしまうのは必至だという事実も。
こんな事をぐちゃぐちゃと考えていたら、自分がいろんな事を犠牲にして頑張っている「ブログを書くこと」に対して、ネガティヴな感情で一杯になってしまって・・・。
混乱してしまいました。
ブログを書く事は好きだから、頑張りたいのです。
でも、最近の私は変に頑張り過ぎていたみたいです。
そしてこの変な頑張りが昔の私の「好きな事を頑張り過ぎて自滅したトラウマ」を思い起こさせました。
過去に私は大好きな楽器をうまく演奏したくて、「練習中毒」になった事がありました。練習を一日でも怠ったら一週間ぐらい退化するという考えの呪縛にかかっていたみたいです。一種の強迫性障害のように。
それは私を苦しめました。
この楽器で自分が望むような演奏ができたら、命をかけてもいい。
・・・と、今から考えると狂人のような考えに囚われていました。
ですが、好きなはずの楽器を、自分を死ぬほど苦しめる原因に自分でしていました。
練習をすればするほど不安になり、自分が望まない方向に進んでいきました。
練習の目的が、「練習をする事によって安心するため」になっていき、自分でもどうしようもなくなっていったのです。
その行為の悲しさが分かっていてもやめれなかったのです。
この経験の詳細はこちらの記事をどうぞ。
話がそれましたが、私は今の生活の熱意の対象の「ブログを頑張ること」でも、このような呪縛にかかっていたみたいです。
素敵な文章を書けるようになりたい。でも、更新を少しでもサボったら、今までの努力が水の泡だ・・・と、ありもしない幻想を勝手に自分で作りあげて勝手に自分を不安にさせ追い詰めていたみたいです。
これは、私のある種の克服すべき悪い「癖」です。
そして、まさに今ブログでまた、このような過去の過ちを繰り返そうとしています。
好きな事、目標を見つける→
目標に向かって凄く頑張る→
頑張り過ぎてしんどくなる→
目的を見失う→
頑張る事の意味がわからなくなる→
今までの自分の努力が無意味と認める事から全力で逃げ、無駄な努力を続ける→
精神を消耗し疲れ果てる→
苦し過ぎて目標を手放す(忘れた気になる)
・・・
いつもこの流れ。
私の過去はいつもこの繰り返し。
私は何で好きな事を楽しんでできないんだろう。
「嫌い」や「トラウマ」になって終わるんだろう。
何で楽しみながら本当に有意義な積み重ねができないんだろう。
なんで途中で本当の目的を見失って「苦痛」の虜になってしまうんだろう。
そして、謙虚に学び、向上する事に向き合わず、弱い自分を守ることに必死になってしまうのだろう。
何で、しっかりと自分の本当に望むものを目を離さずに見続ける事ができないんだろう。
また、私はブログでも逃げようとしている。同じ過ちを繰り返そうとしている。
頑張っているボロボロの自分に酔いたいだけ。
真実から目を逸らそうとしている。
逃げ続けている壁は、絶対にまた自分の前に立ちはだかる・・・。
誰かが私にそんな事を言ってたっけ。
そして、小学生の頃の私の謎の記憶が蘇る。
ドラクエのあるダンジョンのラスボスが倒せなくて、諦めて他のダンジョンをクリアしていっても、最終的には、そのダンジョンのラスボスを倒さないと先には進む事ができなくて・・・でもどうしても倒せなくて・・・っていう遥か昔にしたゲーム「テリーのワンダーランド」の記憶。
結局そのゲームは全クリできなかった。
途中放棄。
まーゲームならともかく、人生は中古に出すことも、捨てることもできない訳で。
人生最大のリスクを負って途中放棄しちゃいます?
もちろんそんな勇気も覚悟も考えも持ち合わせてない訳で。
壁を乗り超えない限り先に進めない。
その壁を避け続ける限り前には進めない。
いくら逃げ回っても、一生自分につきまとう壁。
あーやっぱり、この壁にぶつかるんだなって。
どんなに逃げてもやっぱりこの壁を超えない限り前には進めないんだなあって。
ということで、最近の私はブログの更新に必死過ぎて、体調や周りにまで影響していたので、「休む」という事を頑張ってみようとしている訳です。
他の人から見たら馬鹿みたいな話ですよ。何をそんなに頑張っているんだって。休むって頑張る事か?って。
わかっています。馬鹿みたいだってことは。でも、私にはその馬鹿みたいな事が当たり前にできないのです。
でも、私にとって、「休むこと」がいけない事、「努力と成功には苦痛を伴う」という不本意な幼少期からの洗脳がなかなか解けなくて苦しんでいるのです。
自分で自分を苦しめているのです。
いつも、パンパンなリュックサックを背負っている事が普通の状態だと勘違いしているのです。
その重荷がないと生きていけないと思い込んでいるのです。
そして山登りをしてヒーヒー死にそうになっているのです。
重荷がなかったら、どんなに快適か知らないのです。何故なら生まれてから手放した事がないから。
いらないガラクタがリュックに入っている事に気付いていない、または、気付いていないふりをしている。
無意味に運んでいるパンパンのリュックに執着している。そのパンパンに詰め込んだ荷物がないと生きていけないと思い込んでいる。そして山の頂上に行く事ばかりを優先して、必死に登っている。
そのリュックの中身を出して中身と向き合う事を恐れている。
それは
自分の今までの努力が無駄だと気付くのが恐いため
か
そんな時間が勿体無いと思うほど、頂上への到着を焦っている
か
荷物の整理整頓、取捨選択が面倒なため、その行動から目をそらしている
か
・・・
そんなリュックがなかったらどんなに身軽で快適か。
全てを放り投げて、全速力で走れたらどんなに気持ちいいか。
私は知らない。何故なら、今まで手放した事がないから。
でも、今まで生きてきてなんとなくわかる。現実はそれでは生きていけないって・・・・。
「いつか死ぬとき手ぶらがベスト」
・・・って宇多田ヒカルの「忘却 featuring KOHH」の歌詞であったけど、死ぬときにやっとその重荷を放り投げれるのかな・・・なんて。
せめていつかパンパンの荷物が詰め込まれた私のリュックを最低限の物だけにしたい・・・。
そして昔から何かに追い詰められて悪夢ばかり見る夜とは無縁になりたい。
そう、願ったヒエヒエなのでした。
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